今年いちばんぴったりときたクリスマスの説明は、目に見えないものを可視化したのがクリスマス、というものだ。
ユダヤのヤハウェ神は目に見えない。神像など造って拝むなど偶像崇拝でもってのほか。イスラムも同様だ。キリスト教だけが、「懲りない」で罪を犯し続ける人間のために、神がついに人の形で、「隣人を愛する」とはどういうことかを示すために送り込んだのがイエス・キリストということになる。
その「見える」化の最初が、クリスマス。
上質の宗教音楽は目に見えないものを耳に聞こえる形で伝えてくれるものとなる。可視化できなくとも他の形の「啓示」ってあるのだと分かる。
と、ここまでが予約稿。
今、クリスマスの夜のミサから帰ってきたところ。
「心を開こう、愛に、平和に、喜びに、奉仕に、そして思いがけないことに。」
というメッセージが祭壇の向こうにある。「思いがけないこと」とは、神が受肉したことなのだ。
今年は久しぶりに喉の調子がいいので、たくさんの歌を大声で歌えて、舞台に立っている気分だ。
今年の「馬小屋」も、子供たちの作品。

最初は幼子イエスがまだ置かれていない。ミサの途中で司祭が赤ちゃんを置き、出席者たちが、願い事などを書いたハート型の紙を横のツリーにかけたり聖家族の前に置いたりする。


歌の歌詞と司教からのカード(裏にメッセージがある)
この、毎日がクリスマスという歌の歌詞が気に入った。
一番大声で歌えて気持ちいいのがグローリア。中学校の音楽の教科書で、「刈干切唄」と同じころに習った。母音を延々と伸ばすところが似ていて、この2曲は今でも、歌詞もすべて覚えていて歌える。声楽をやっていたので、この二つの曲での息の配分が楽しかった。だからこの曲を聴いたり歌ったりすると、まるで少女時代に戻ったような気がする。刈干切唄の方は、大勢で歌う機会なんて一生ないと思うと不思議だ。
音響抜群の場所で一番たくさん歌を歌えるクリスマス。伴奏はオルガンとクラリネットだった。
安心だけど残念なのは、今年も、教会の門の両脇に銃を抱えた兵士が警備していること。テロの可能性が高まっているということで内務相が通達していた。中東のキリスト教徒が迫害されているのは周知だけれど、フランスのような国で、文化遺産でもあるクリスマスにセキュリティのリスクがあるなんてどうしても慣れない。
それでも、みなさん、メリークリスマス。