エチエンヌ・クラインの話を視聴して、scienceとrecherche、サイエンスとリサーチの違いについてあらためて考えさせられた。
サイエンスとは、確定された知識の体系であり、その中でまだ確定されていない疑問について考えるのが「研究」だ。そういう仕分けで言うと、「医学」や「疫学」などの「サイエンス」の部分など、ごく一部だろう。それなのに、今は、「研究」の分野がサイエンスを侵食しているという。
コロナ禍においても、ドイツのメルケル首相は「科学者によると」という言葉を使った。その場合の科学は確実に分かって共有されている知識の部分であるはずだ。それに批判するにはやはり科学的な反証が必要だ。 一方、フランスではいつも「ドクターxx」とか「プロフェッサーxx」によれば、という特定の「研究者」が特定の「研究データ」を分析してさまざま仮説、提言、予測をして、それを政府が取捨選択してきた。
日本語では「学者」というと研究者のイメージで、科学者という言葉も研究者との境界がよく分からない。ウィルス学とか感染症学とかの「専門家」というさまざまな人がコロナ禍の対策や見通しやワクチンについてまるで「確定された知識」を披露するかのようにさまざまに「断言」してきたようだ。
サイエンスでは「分からない」と「研究」に振り向けられる分野の多くのことについて、「科学者」が「それは分からない」と言うと、メディアはもう質問しに来ない。メディアが欲しいのは「答え」だからだ。
「人文科学」の分野には一部の歴史事象などを除いては「確定された知識」など最初から想定されていないし、「証明」などできないし、「研究」とか「探求」の連続で、何のためにどこへ向かうかということも常に問われている。
コロナ禍対策においては、科学の言葉にも、研究者の言葉にも、メディアの言葉にも多くの場合欠けていたのは「謙虚さ」だったかもしれない。