キリスト教文化圏の心性の変化について分析するエルヴェ・マジュレルの本を読んで、単純になるほどと思ったことがあるのでメモ。
いろいろあるのだけれど、キリスト教による超越神とのつながりを失った人々が、「自我」に還元されて、それが肥大すると同時に、「打たれ弱くなった」という点だ。すでに20世紀の初めに、ジンメルはベルリン市民を観察して、匿名性が高くなった都市の生活が人々の感性や心理状態に大きな影響を与えていると報告している。
キリスト教的な共同体の中では、「罪」を犯しても、神に赦してもらえるというシステムがあった。
告解だったり、免罪符だったり、イエス・キリストや各種聖人への祈りだったり、さまざまな罪悪感の軽減の道があった。
それが、キリスト教的な「罪」の意識が時代遅れになって以来、「罪悪感」が不安や抑鬱や恥の感覚へと姿を変えたという。「恥」は神ならぬ「他者の目」に係るものだ。不安や抑鬱を解消する方法のひとつとして他者による「承認欲求」も大きくなる。
日本も、もともと恥の文化などと言われているけれど、周囲の目だけでなくて、「ご先祖さま」や「お天道さま」に対して恥ずかしくなければ「世間の目」への過剰な恐れは軽減されていたのだろう。
けれども、今や「世間」を前にした孤独が、世界中の都市型社会における抑鬱の大きな要因になっている。
家族や友人に支えられている間はなんとかなっても、そういう関係はもとより脆弱だ。互いの老いや病や死によって揺さぶられる。
たとえばらばらの個人の「神頼み」や祈りはあっても、それを担保するシステムがないとうまく機能しない。
さまざまな神話も伝説も教説も、不安や抑鬱を分かりやすい「罪悪感」に置き換えてから解消する知恵だったわけだ。
今の時代の不安や抑鬱を軽減する「物語」の更新には意味がある、と納得できる。