今年の5月、砂漠の隠修士として半生を捧げたシャルル・ド・フーコーがようやく列聖される。
彼は、その生涯にただの一人の「異教徒」も改宗させなかった。
「種を撒いたが、その実りを収穫しなかった」、とも形容される。
この上のブログに付け加えると、フランスで毎年、イスラム教に改宗するという4000人のうち一番多いのは、伝統的通過儀礼の幼児洗礼を受けても帰属意識のないままの若者や、68年世代で教会を離れた親に育てられて漠然と「無宗教」のままの若者だろう。ムスリム家庭の女性と結婚するためにイマムのところに行ってアラーの唯一性、偉大性を唱えることでムスリムの一員にしてもらうというタイプがある。この場合、女性の方は、信仰の有無にかかわらず、宗教の変更は許されずムスリム以外の男との結婚も許されない、という基本的な事情があるので、夫を特に信仰に導くというわけでないものが多い。
その後、カップルが破綻しても、統計から抹消されるわけではない。
もともとの非宗教的生活態度が変わるわけでもない。
少数の深刻な例が、無宗教的な空気の中で育った若者がイスラム過激派のネットによるプロパガンダに共鳴してしまって、過激なムスリムとなり、最悪の場合はジハードと銘打ったテロリストになるようなものだ。麻薬のディールや空き巣や泥棒、器物破壊などで刑務所に入って、その中で過激派ムスリムに洗脳されるケースもよく知られている。彼らがイスラム教への偏見など社会に与えるインパクトは限りなく大きい。
これに対して、ムスリムからカトリックに改宗する400人という数字にはあらためて驚かされる。女性なら家族との断絶を意味するし(教条主義イスラム国では死すら意味する)、男性なら家族全員も改宗する確信的ケースが考えられる(日本のキリシタン大名らの一家総洗礼、一家総殉教を想起させられる)。敬虔なムスリムであるほど「神」に向かい合う時間のない生活は考えられないので、無神論者や不可知論者になるのではなく、同じ一神教でフランスでのマジョリティで、精神的なハードルの低いカトリックに改宗する。でもそれはフランスの「ムスリム共同体」との断絶を覚悟することでもある。
以前にも書いたが、私の直接知っているムスリムからのカトリックの改宗者としては、イランのイスラム革命からフランスに亡命してきた高名な外科医の一家で、息子たちも学生になっても胸から十字架を下げていた。現在のフランスのカトリックのほとんどは、教義による生活の縛りが事実上ないので、逆に、真摯に神に向かおうとする人たちには教義の字面への抵抗も少ないだろう。
つまり、今のフランスで、キリスト教に改宗する少数のムスリムの信仰は、「神」を考えない多くのフランス人がイスラムに改宗する場合よりはるかに深い。
もっとも年400人というのは、カトリックへの改宗だから、カトリック教会による統計が出ているわけだ。実際は、フランスにいるムスリム系移民や移民の子孫がイスラム教を離れてキリスト教に「改宗」する場合の多くは、アメリカ系のプロテスタントや「福音派」教会に向かうものと思われる。1970年代以降、マーケティング戦略、セルフ・デブロップメント、病気平癒、成長と繁栄の神学をかかげて強固な共同体主義やロビーを築いているので、「ムスリム共同体」を離れても安心安全が保障されるイメージだ。こういう新自由主義的グローバル宗教が実際に世界の平和や協調につながっているかというと大いにあやしい。
「種を撒いたが、その実りを収穫しなかった」シャルル・ド・フーコー。
私たちはみなある意味で、長い間をかけて「品種改良」されたおかげで生き延びた種のようにこの世に生を受けた。自分の中で最良の部分を慎重に選択して次の世代のために種を撒くことができるだろうか。