イグナティウス・デ・ロヨラ(イグナチオ・ロヨラ)について調べ物をしていたら、あの時代のスペイン、改宗ユダヤ人、プロテスタント運動の誕生と、目まぐるしく思考がかけめぐって、ほんとうに「聖パウロの時代」の再現だったなあと分かる。パウロになくて彼らにあったのは、パウロの残した書簡の意味やその後のキリスト教の誕生の歴史で、先人パウロがいなければ、ルネサンス史も宗教改革史も変わっていただろう。
いずれは系統的な文書にしたいけれど、ここで覚書をしたためておくと、15世紀前半の西ヨーロッパにおける「改宗ユダヤ人」(つまり1492年にイベリア半島から追放されずにいたユダヤ人)の多くは、知的にも社会的にもエリート層を成していたということだ。
私は『ノストラダムスの生涯』(朝日新聞社)の中で、改宗ユダヤ人の祖父と親密だったノストラダムスが、カトリックとプロテスタント勃興とルネサンス・ユマニスム時の坩堝、あるいは知的アマルガム状態だったフランスにおける典型的なルネサンス人だったことを述べた。
イグナチウス・デ・ロヨラも実はノストラダムスのほぼ同時代人だ。
彼はバスク人でフランスとの戦いで負傷して療養中に「回心」体験をしたわけだけれど、神学を修めるためにサラマンカ大学やパリ大学で学んだ。サラマンカでは投獄された。
サラマンカ大学というのはまさに、改宗ユダヤ人エリートがたくさんいたところで、非常に懐が深かった。アラブ系知識人もいた。ロヨラも、パウロが「非ユダヤ人」、ギリシャ人をキリスト者として受け入れ、キリストに従うものはすべてキリストの体、といったように、「キリスト教は宗教ではなく人間の冒険である」というスタンスだった。そのためにプロテスタント寄りだと思われたわけだ。(パウロも「回心」を経験したという意味で一種の改宗ユダヤ人だった。)
結局、パリ大学で神学の全ての課程を終え、パリでイエズス会を立ち上げ、それから30年ほどは、宗旨や出自にかかわらず、イエスに倣うものを広く受け入れた。
エルサレムで隠遁修道士として過ごすのを夢見たけれど、教皇の命令でローマに戻り、イエズス会のホームはローマになった。
いろいろあるのだけれど、ロヨラは天才的なマネージャーでもあり、16世紀の嵐の中を、ペシミスティックなプロテスタントと楽観的なルネサンスの大きなうねりのどちらにも足をすくわれずバランスをとったという意味でも稀有な存在だった。
パウロも何度も投獄され、最後はローマで殉教した。ロヨラも世界中に派遣したイエズス会士の指揮をとりつつ(16世紀最多の書簡を残している)、ローマで死んだ。
16世紀の半ばの半世紀以上を生きた同時代人のロヨラとノストラダムスをパウロを通して複眼的に眺めると、ルネサンスにもオカルトにも宗教戦争にも、別の光が射してくる。