アングロ・サクソン系フェミニズムとフレンチ・フェミニズムの違いは、これまでいろいろなところで書いてきた。
今のアングロ・サクソン系フェミニズムは、「男」を敵と見立てた戦闘的なものであると同時に、基本的に「白人女性」のフェミニズムでもあった。もっと深刻な社会的差別や貧困や迫害のもとにある女性はその仲間に入りようがない。もちろん、異性愛白人女性の被る差別より、低所得で同性愛者の黒人女性の被る差別の方が深刻であることは確かで、ブルジョワ・フェミニズムの限界はある。
それに対してフレンチ・フェミニズムは、もともとユニヴァーサルな人権主義を基盤としているから、男も女もまた他のジェンダーマイノリティの人も、公正で平等な社会を目指して共に進むべきものだ。
それだけではない。アングロサクソン系フェミニズムでは、差別の問題もロビー化されて優先的な運動が決まる。その中では、「白人女性のフェミニズム」も指弾される。その結果、普遍的フェミニズムも抑圧される。
で、イタリア移民の工場労働者を父に持つ教育者、ジャーナリスト、政府の顧問などの経歴を持つ哲学者のマルティーヌ・ストルティが「普遍主義フェミニズムのために」という新著を出した。1946年生まれで、共産主義や五月革命の「洗礼」をも受けた世代だ。
(またまた、近頃の習慣で、本を購入して読む代わりに彼女のロングインタビューを視聴した。本を買えば安心して「積ん読」状態になっているものが山のようにあるからだ。)
フェミニズムの中で、「ガラスの天井」が攻撃されるが、その多くは、政治的野心、経済的野心を持って「勝ち組」になろうとする女性の言葉で、「ガラスの天井」は、男にもある。金が偶像化した世界では、人間が人間を搾取して支配するシステムが定着している。そのシステムを「改革」して、女性だけではなく、旧植民地や途上国や独裁制下にあるすべての人の尊厳が守られることをストルティは標榜する。
カテゴリーごとに加害者と被害者に分けるような運動は袋小路に入り込むのだ。
今、多くの分断したフェミニズムは、その改革を妨げるどころか、「金権」優先のツールにされて、一部のセクターの「利益」を生み出している。
このフェミニズムの分野でも、人種差別と同じで、後発の「先進国」「非白人だが植民地にならなかった国」である日本人の立場は両義的だ。アングロサクソン風共同体主義よりもフランス風「普遍主義」の立場に立った方が日本人には圧倒的に有利だと、フランスに暮らしながら得た確信は、今も揺いでいない。