(続きです)
1485年、22歳のピコははじめて著述を公にする。巷の「哲学者」たちが、「真実」の追求よりも修辞や詩的表現を優先して繰り広げていることを指摘するソフィスト批判だ。思想に求められる厳密さをあいまいにする両義的な言い回しを廃止すること、学術的な言葉の定義を明らかにする必要性を説いた。
スコラ哲学を捨てたわけではなく、同じ年にパリで、三つの一神教を統合する論文を書き始めていた。
プラトンとアリストテレスの統合も目指した。それを結ぶのは古代神話に表現される「智慧」だった。
それらについて意見を戦わすためにdisputatioという公開の討論会(中世スコラ哲学で採用されている方法だった)を企画した。そのたたき台として、ピコは、23歳の時に、「知り得るすべてのことに関する900の命題」(De omni re scibili)
を、哲学、カバラ学、神学の結論と称して発表した。
カバラは聖書を神秘的、暗喩的に解釈する伝統で、ルネサンスにはキリスト教カバラが生まれていた。キリスト教以外の人類の知の体系を統合しようという流れだ。
900の命題はすべての科学(in omni genere scientiarum)に渡る。
もちろんキリスト教の優越は認めるが、それがユマニズムと古代神話(特にプロメテウス)によって語りなおされる。
ピコは「princeps Concordiae」(和合、統合のプリンス)と呼ばれた。それは彼の貴族の称号でもあったのだけれど、ルネサンスにおける哲学と宗教の統合に重ねられた。
900 の命題の序文が、今も彼の著作として有名な「人間の尊厳について」だ。
人間の本質的自由への信頼は、ルネサンスが生んだ新しいユマニズムである。
そのような壮大な知的挑戦を投げかけていた同じ年、23歳のピコはメディチ家のロレンツォのいとこの妻に恋をする。彼女を連れ去ろうとして負傷した。
900の命題は、と言えば、教皇イノケンティウス8世が、それを検討する評議会を設けて、900 のうち13 が異端であるとされた。でもピコは、ローマでこの件について公開討議に参加したい者には移動を含めた必要経費を提供する、と、やる気満々だった。しかし行き過ぎたユニヴァーサリズムを快く思わない高位聖職者も多く、討議に禁止令が出された。24歳のピコは、異端とされた13の命題を公に削除することを求められた。
ところがピコは、自己弁護する「Apologia」という本をメディチの大ロレンツォに献げた。
教皇は怒り、900 の命題全てを異端認定し、ピコはフランスに亡命する。
しかし翌年、教皇命令で逮捕され、ヴァンセンヌ城の地下牢に投獄された。
彼を解放したのはフランス王のシャルル8世だ。
自由になったもののさすがにソルボンヌでの論文審査は禁止され、ピコはフィレンツェに戻ってそこで生涯を終えることになる。
この時、25歳だ。
20代前半の青年が、許されぬ恋までしながら、教皇や王を巻き込む壮大な知的挑発をしかけ、何にも屈することのないユニヴァーサリズムの冒険を貫いたわけだ。
前回の記事にも書いたけれど、それが可能だったのは、当時の知識人も、高位聖職者も、王侯貴族も、メディチ家のような富裕層も、みなが結局、可動性の高い同じ特権的ファミリーを形成していたからだ。もちろん政治的経済的な損得の争いはある。シャルル8世もピコの没年にイタリア侵攻をした。
ヨーロッパの歴史の重層性はどこを切り取るかでまったく別者に見えてくる。
(続く)