ブリュノー・ラトゥールという社会学者がいる。(日本語で検索したらブルーノとイタリア語風表記だった)
斬新なパラダイム変換を唱えている人で、「存在のモードについての調査」という大部の作品は
全編ネット上で読める。
その彼が、ちょうど1年前に、「私はどこにいるのか?」という本を出している。フランスがコロナでロックダウンを何度か繰り返した後のことで、これからもそれが繰り返されるだろう、と言っていて、実際そうなった。
詳しいことはまた別のところで反芻するつもりだけれど、コロナ禍によって、彼が今まで唱えてきた「場の感覚」「場の意識」の変革の意味が分かりやすくなったということだ。
コロナ・ウィルスの「変異」の様相も、それを分かりやすくしてくれた。
簡単に言うと、ウィルスと同じように、人も社会も、次々と絶えず「変異」している。
コロナ禍は「危機の時代」ではなく「変異の時代」である。
それはたえず「学ぶ」ことを促す。
哲学や社会学や政治は「私は誰か?」という問いを常に発してきたけれど、ほんとうに重要なのは「私はどこにいるのか?」という問いだ。
都市封鎖、外出制限という規制によって、我々は、「ホーム」に隔離された状態になった。
それが解除された時も、他の「ホーム」や国境を越えた他の国からは隔離されていた。
その意識が、実は、人類はこの地球という環境(しかも自分で汚染している)に縛り付けられて隔離されているのだということを知らせてくれる。
世界を分断するあらゆる二元論やカテゴリー分け、国や人種やジェンダーやイデオロギーや、政治や宗教や経済や科学などの重層的な「ホーム」に隔離された状態、互いにディスタンスをとった状態にある。
我々は地球という宿主にとりついたウィルスとでもいえるので、絶えず変異して生き延びてきたけれど、宿主の健康状態と共に動的平衡が保てるのかどうかは、宿主の外の世界、宇宙にまで視野を広げることにかかっている。
それゆえに、「私はどこにいるのか?」の問いこそが、「私は誰?」をベースにしたパラダイムを変革するキーとなる。
ラトゥールはベビーブーム世代で、ずっと戦ってきた人という印象で、その信念や語り方にはちょっと引いてしまうところもあったのだけれど、「コロナ禍」のおかげで、「問いの立て方」にヒントをもらえた。