ピコの書いたもので最も有名なのが900命題の序文である「人間の尊厳」論だ。
人は物質と精神からなる小宇宙であるというルネサンス的定義は、アリストテレスが「知性と良心」を挙げたことをベースにしている。アリストテレスは、人は、「考えることと死すべき神として行動するように生まれた」(Protreptique)とした。人は物理的能力には秀でていないが、与えられたものを文化によって変容させていく潜在的な力を持つ。
環境も変えることができる唯一の動物だ。人はそれぞれが自分の人生の著者となり得る。
ピコが「人間の尊厳」としたのもその部分だ。
人間の文明のスタートにある「火」を神から奪い人間に与えたことで罰せられたプロメテウスの神話はプラトンも語っていた。
そこには、プロメテウスのきょうだいであるエピメテウスの逸話もある。「プロ」と「エピ」は日本語でも「プロローグ」「エピローグ」などで知られているように、前と後を示す。プロメテウスは先に考える「先見の明」ある存在で、「エピメテウス」は「後知恵」で、あらかじめ考えない。
彼らの父であるゼウスが人間と動物の区別をどうするかをそれぞれに託したが、最後は、プロメテウスが「火」と共にアートとサイエンスを人間に与え、それを使って人間は自力で存在の仕方を切り開いていく。
ピコはそれをキリスト教に応用しようとした。
善なる神はすべての被造物が「悪という運命」のアポリアから逃れられるように、人間に「自由意志」を与えた。
自由意志の使い方によって人は神にもなるし、動物にもなる。
これは、後にサルトルが実存主義とヒューマニズムの関係で述べた「存在は本質に先行する」に通じる。人は存在の中で、自由意志によって自分の生を投企するというものだ。個々の人生は、自由意志によって築かれる可塑性がある。
もちろんピコの方は、26歳での著書「Heptaplus」において、神の恩寵の役割の重要性を説いている。「超越」を否定する無神論者サルトルとは異なる。けれどもピコは人間性をカメレオンに例えていて、同じ人間でも、自由意志の行使の仕方は善と悪の間を絶えず揺れ動くとしている。
ピコはサルトルを読んでいないけれど、サルトルはピコを知っていただろう。
ともかくピコは、ルネサンスの時期にあったキリスト教の「原罪」論のペシミズムを中和した。
プロテスタント教育を受けたサルトルの方が、出発点にあったペシミズムをずっと引きずっていたように思えるのは気のせいだろうか。
(続く)