前に、「器(うつわ)」という記事を書いたことがある。
先日、『カトリック生活』3月号が日本から届いたので読んでいると、江戸中期の俳人・横井也有の言葉が紹介されていた。(p20)
「袋の賛」という名分で、こういうもの。
「器は入るゝものをして、己が方圓に従はしめむとし、袋は入るゝものに随ひて己が方圓を必要とせず。実なる時は肩にあまり、虚なる時はたたみて懐に隠る。虚実の自在を知る、布の一袋、壺中の天地を笑う可し」
今はフランスでもエコバックのようにたたんで持ち歩くタイプの袋が出回っているし、昔から日本の「風呂敷」の機能は知られていたけれど、この文の世界観にははっとさせられた。
あの人は器が大きい、とか器が小さいとかよく言われるし、それは寛容や不寛容の「評価」にもつながる。袋にも、「大風呂敷を広げる」のようにサイズの比較はあっても、根本的な虚実の自在という在り方についてはどの袋も同じだ。
ネコで言えば、「器」に対しては自らを液体のように対応させるけれど、「袋」は、獣医の診察の時の保定袋のように、固まってしまう。「猫をかん袋に押し込んでポンと蹴りゃニャンとなく(『山寺の和尚さん』)」なんて動物虐待になりそうな歌詞にも、猫と自由と器と袋との関係を思わずにはいられない。
私たちはみな「壺中の天地」に生きて、器の形に何とか合わせようと思っている。器は固定したもので、適応すれば一生安泰という気もしている。器を変えたり、壊したりというのは大事件だ。一方、無理やり袋に閉じ込められている時は、そこから出るのは難しい。独力で出口を模索しても、袋を「虚」にして運ばれること、入れられることを拒否して生きることは果たして可能なのだろうか。
ネコは、自力で出られる「器」には自ら入って、器の形になるけれど、形のない袋には入らない。間違って頭を突っ込んだりするとパニックになる。
コロナ禍で広まったステイホームやロックダウンって、「器」だったのか「袋」だったのか、などとふと思いをめぐらせてしまった。