カナダ在住の夫妻が3ヶ月ぶりにうちに来たのでいろいろ話を聞いた時の話。(私がカナダに行く前の話)
コロナ禍が収束すれば、2年前から延ばし続けていたカナダ旅行を5月末に決行する予定で、都合が合えばモントリオールのカトリック高位聖職者と話す席を設けてくれるという。
彼らには同じモントリオールに住む一人息子のところに4歳と1歳の孫息子、孫娘がいて、よく世話をしに行っている。彼らの義理の娘に当たる孫たちの母Aさんはモントリオール生まれのカナダ人。息子もAさんも、アングロサクソン系教育システムでずっと育っている。
息子はモントリオールのマギールやボストンのMIT博士課程を経てIT系の仕事で忙しい。で、彼らが息子宅に行って、フルタイムワーカーではないAの不在中にベビーシッターをよくしている。
彼らが驚くのは、たとえば4歳の息子を幼稚園に連れていく前でも、例えば、その日にはく靴下を2種類見せてどちらにするのか自分で選ばせるということだ。
すべてにおいて「選択肢」を与える。
その理由は、将来必要となるネゴシエートの力(交渉力)を養うためだという。
「選択するだけではネゴシエートにならないのでは? 親の決めたものに異論を唱えた時に交渉が発生するのでは?」と私は言ったのだけれど、ともかく、基本的には選択の自由を与えるというか、決定に関与させるということらしい。
周りの同世代の親たちも同様だとか。
実際は、親の決めたものを始めは何も考えずに受け入れ、ある時、それに反発してもじっと我慢して、自立できる日を待つとか、親に反抗してもやり込められたり強制されたりしてその意味を考えるとか、それこそ親に自分の選択を説明してわかってもらう努力をするとか、いろいろなケースがあると思う。
3歳くらいまでは保護者からの「無条件の愛情」を注がれるのが大切だというのは分かるし、同時に、親が決定した原則を明確に分からせるというのも大切だと思う。(たとえそれが間違っていても、それを批判するのも明確になる)
幼児に、靴下の色一つでも、必ず選択肢を用意するというやり方は本当に有効なのだろうか?
選択肢として提示されたもの以外の可能性を考えなくなるかもしれない。
色の例でいうと、大人になって選択しているつもりでも、「今日のラッキーカラー」とか、「今年の流行色」などに実は影響されて暮らすかもしれないのだ。
この孫を自宅で預かる時の祖父母はそんな「選択肢」を提示しないのだが、孫息子はしっかりと「それはネゴシエートすべきだ」というような表現をよく使うという。
批判的知性の形成ではなく、交渉能力、論破力などが優先される教育って、どういうものなのかと思うと、なんだか心配だ。