冬休みにルーブル美術館に行った時、文房具フェチの身として、帰りにミュージアム・ショップでアート柄の文房具を色々買ってしまったのは自然な成り行きだった。
もともと実用を考えているわけではないから、表紙のデザインなどでノートを買ったりする。その中で、猫のデッサンの小ぶりのノートは、もうお決まりの購入品だった。
帰ってから見るとドラクロワのデッサンだった。

もっとよく見ると、ノートではなくクロッキー手帳だった。
確かに中の紙はクロッキー仕様になっている。
それに気づいた時、隣の椅子でナルくんが寝ているのに気づいた。
近くにクロッキー用の鉛筆がなく、2H という硬筆しかなかった。でも、せっかくだし、ナルが姿勢を変える前にと、1分間に時間を区切って急いでスケッチした。でも2Hの鉛筆ではこんな感じ。
ううん、次は6Bの鉛筆で挑戦、と思った時、突然気づいたことがある。
このブログのネコカテゴリーだけでも、私はもうたくさんの「うちの猫」の写真をアップしている。タブレットの「アルバム」の「ネコ」という場所には当然ネコ写真でいっぱいだ。岩合さんの猫写真でコラージュもしている。
ドラクロワの時代には、そんなことができなかった。有名な「藤田の猫」の頃も、「朝倉(文夫)」の猫」の頃も、いやついこの前までは、日常を手軽に切り取れるカメラなど存在していなかった。
人体のクロッキーなら昔はモデルを雇ってポーズを決めて動かないでいてもらったり、肖像画もそうだっただろう。でも、今は、いつでも誰でもが、道ですれ違う猫にですらシャッターチャンスをもらえる。寝ている猫どころかも色々な動きも画面に収めることができるのだ。
私は昔、愛犬や手乗り文鳥のデッサンに挑戦しては満足してしていたけれど、その頃はカメラというものは旅行や行事などの非日常の記念の記録で、犬や鳥が寝そべっているところなど全く写真に残っていない。
今は、ネコをテーマにした漫画などが至るところにあって、そのデッサンは別に写実的である必要はなく、独自のキャラと魅力を備えている、でも、そういう漫画家でも、猫の表情や動きを観察するためにたくさんの写真を撮ったり動画に収めたりするようだ。
そう、デフォルメやキャラクターの表現力が問われているとしても、クロッキーという速写や観察記憶力などもう必要ないのだ。
今私が自分の猫を撮影して、それをじっくり鉛筆画にしても、多分何の意味もない。時間をかければかなりの精度で復元できるだろうが、いったいそれが何だというのだろう。いや、写真に撮ったものをスケッチ風に変換するアプリまで存在している。
そんなことに気づくと、「お願い、もうちょっとそのままの姿勢でいて」とこちらの存在感を消してまで愛犬や愛猫に必死でテレパシーを送っていた頃にはもう戻れない。
ドラクロワのクロッキー手帖、はたして愛用のものとなるか、まだわからない。
スマホなどない頃、愛猫の姿をなんとか表したいという愛情が滲み出ているアーティストたちによるクロッキーやデッサンの境地にはもうたどり着くことはないという無力感を乗り越えることはできるのだろうか。