「希望を持つとはリスクをおかすこと(L’esperance est un risque à courir)」とはベルナノスの言葉だ。
ミッシェル・フーコー『性の歴史』の第一巻の「La volonté de savoir」には、18世紀以来、衛生施策や受精や移民制限などバイオ・ポリティックが進んだことが書かれている。
コロナ禍の世界では分かったことの一つは、このバイオポリティックがあらゆる社会生活に入り込むことだ。
ウォルター・ベンヤミンは「命の価値を至高のものとする、優先する」と言ったが、それは生物学的命だけではない。「個人の生き方の歴史=生涯」biographique としての命もある。社会はそれも守るべきだった。
グラムシの獄中記には、「クライシスとは、古いものが死ぬが、新しいものが生まれえない状況」としている。危機においては、本質的な解決でなく、単純で直接的で乱暴な策ばかりとられるのだ。
アリストテレス『哲学のすすめ』 原題“プロトレプティコスでは、『人は二つのことのために生まれた。考えることと、「死すべき神」としてふるまうこと』とある。どちらも「生物学的生命」ではない。
一方、Providenceという言葉がある。語源的には、先を見ること。キリスト教では「摂理」として訳される。ラテン語動詞の"providere"から来ていて、pro(前を) + videre(見る)、すなわち「予見」を意味する。
「言わないこと」が「なかったこと」にされてしまうこともある(Nondit がinditに)。
ラテン語の"providentia"は、キリスト教の文脈では、「(神ならではの)予見とそれに伴う配慮」、すなわち「予め配慮」されていることになる。
といっても、「創造」は創造主である神の一方的なアクションだったけれど、「創造後」の「被造物」の世界は、被造物が「自由」参与する協働的な関係に変わる。創造以前からの救いを「決定」的なものと考えるか、人間の自由意志の介在を想定できる「摂理」を想定するかは宗派によって解釈が変わってきた。
コロナ禍のような「疫病」をどのようなタイプの「試練」と捉えるかにも諸説がある。
よく「神は耐えられない試練は与えない」などと耳にするが、それはすべての試練にはそれを克復した者に新しい「使命」を与えるということだそうだ。ユングが「教会は心理療法家の役割を果たしている」と言ったことについて、ベネディクト16世は、「試練が超越に根を持ち、同時にセキュリティを与えるという意味ではそうだ」と言っている。
ポピュリズムが跋扈するのは結局、人は何らかのストーリーを「共有」したいということで、しかもマジョリティのストーリーの共有で安心を得たいということだ。いくらスマホの前で人々が「孤独な消費者」として分断された状況であろうと、隣人や弱者を顧みないエゴイズムに没頭しようと、実は人は「祭り」に参加したいのかもしれない。コロナ禍のような「試練の共有」は、その意味で、貴重な社会観察、人間観察だった。摂理主義はポピュリズムの土壌でこそ、バイオ・ポリティックを一気に強化したのだ。