(その1の続きです。その1の後、9/9にエリザベス女王の死についての2 目の投稿があります。)
Q : キリスト教徒においても同じでしょうか。
A : 複数の調査によると、教会に通うフランスのキリスト教徒の30-40%は肉体の復活に懐疑的です。でも「復活」をどういうものだと考えているかをまず知る必要があります。また、「信仰」信条の全てを受け入れるのが難しいというのは不思議ではありません。私は『Une foi inaccomplie(Bayard)』(未完の信仰)の著者であるギョーム・ド・フォンクラールと話したことがありますが、彼はミサで信徒信条の全てに合意するのに抵抗があると言っていました。彼は豊かな内面と生き生きした信仰を持っている人で、「信条」のどれかに同意できないからといってキリスト者でないなどと思いません。
とはいっても、もしイエスが復活したと信じられていなかったら、今日まで彼の存在が覚えていられたとは思いません。復活はキリスト教の根幹でありそれなしにはキリスト教の核が失われるでしょう。パウロが「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなた方の信仰も無駄になります」(1コリント 15,14)と言ったとおりです。
Sekko : これは『自由人イエス』(ドンボスコ社)にも明らかにされている。当時の主知的なヘレニズム世界や伝統的なユダヤ社会とはまったく相容れないイエスの教えが、イエスの悲惨な死を見て保身に走った弟子たちに受け継がれるという可能性はゼロに近かった。その弟子たちがなぜか手のひらを返してイエスの教えに帰還したばかりか、命を懸けての宣教に出発して世界宗教を形成してしまった。その理由が、「復活」のような途方もないことを彼らが信じたからだというのは納得できる。
復活も昇天も聖霊降臨も、追認しようがないけれど、その後の展開の「途方のなさ」だけは確かだ。