(前の記事の続きです)
Q : 哲学的に考えてみた場合、霊だけが死後も生き続けるというだけではうまく機能しないのはなぜですか?
A : 死後の生を考える場合には多くの人々が個人のパーソナリティを保った形を想定しています。言い換えると、今の生でも死後の生でも私は「私」と自称し続けることができるということです。そして、死後もこの「私」が存在し続けるとしたら、私の体も存在し続けるというのは一種ロジカルな考えとなります。なぜなら、私という人格はエスプリ(霊、精神)と肉体との緊密な結合からなっているからです。この「肉体化した私」の「霊肉一致」は、飲食したり呼吸したり快楽を感じたり、などの日常的な行為と共に私の存在の地平に組み込まれています。だから、もし誰かが、死後の生で自分に残されているのが霊だけだというなら、「それはもはや自分ではない、何か別の者だ!」と言いたくなるわけです。
Sekko : (これまでのこの手のインタビューの要約と同じく、このブログは一問一答を読み長に同時に書いているので、コメントも、この話がその後どう展開するのかを知らぬまま脊髄反射的に書いています)
うーん、個人的には、もし死後の世界で心と体がセットになっていなくても困らないかなあという感じだ。イエスも手足やわき腹の傷口そのままで復活したような記述だから、死亡時の肉体のままだったら事故や重病や老衰などの姿のまま復活してもしょうがない。
死後の世界でまでも飲食したいとも思わないし健康管理もしたくない。私のイメージでは、別世界に去るのではなくて、霊の形で生者の世界とつながっていて、生者の側にアンテナがあれば交信もできるし、時と空間を超えて自由に移動できるというものだから、それをフルに生かしたい。ただし、いろいろな文化での「証言」を見渡すと、肉体抜きの「私」の意識はだんだんと薄れていって、集合霊みたいなものに吸収されて代謝されるようでもある。それは、正者が、死んだ「私」を想起してくれる期間や強度と対応しているようでもある。先に逝った親や友人たちとの「交信」を振り返ってもなんとなくそんな感じで納得している。
幸いこれまでのところはあまり怨みやら確執のない人生だったからそういう「お花畑」な発想が可能なのかもしれないけれど…。
(続く)