Q : 教会も、この「肉体の軽視」をしてきませんでしたか?
A : 三つの一神教の中で、キリスト教だけが、ギリシャ哲学のカテゴリーの中で考えを表明してきました。その点に関して言えば、キリスト教とギリシャ哲学の見事な結びつきは、よかったのかどうか分かりません。一世紀から二世紀にかけて、ユダヤ人であるアレキサンドリアのフィロン、キリスト教徒であるアレキサンドリアのクレメンスのような思想家が、厳しい二元論的なプラトン主義(禁欲主義)を広めてきたという説があります。肉体と性とが罪の源泉であるという考え方がキリスト教の中に少しずつ浸透しました。その緩慢な偏りが、ニーチェをしてキリスト教の「肉体恐怖症somatophobie」と呼ばせたものにつながりました。幸いなことに今はその偏りが正されつつあります。ヨハネ=パウロ二世は「肉体の神学」を提案し、ベネディク16世は「神は愛」という最初の回勅の中でエロス(肉体の愛)を復権させましたが、そもそもキリスト教初期のバグは本来あってはならなかったものでした。
Sekko : 2005年の回勅は日本語でもググると読めるし要約も出てくる。
エロスとアガペー、フィリアなどを論じ、キリスト教は神へ捧げる愛であるアガペーを強調して人間同士のエロスを切り捨ててきたけれど、神の愛は人間の愛と直接結ばれているとする部分だ。
確かに、キリスト教文化ではなく肉体への視線が「おおらか」だという文化はたくさんある。でも、「性」はホルモン分泌と大いに関係しているわけで、「外見」も含めて少しずつ発現するので、成長途上におけるタブー的なもの、罪悪感みたいなものはかなり普遍的にあるかもしれない。その上、多くの文化では財産管理の必要(相続者の血縁性)もあって、さまざまな性の管理があるから、それを逸脱したり秩序を乱したりする性の形はどこでも罪や悪や闇や影のレッテルが貼られてきた歴史がある。
キリスト教における神の受肉が男という性を持ったイエスひそかにであったこと自体が人々をひそかに混乱させてきたとも言えるだろう。