(前の記事の続きです。)
Q : どうしてですか?
A : なぜなら、カトリック信者なら「ソマトフォビア(肉体恐怖)」でなく「ソマトフォリア(肉体愛好)」でしかあり得ないからです。聖書は全体として、最初から最後までマチエール(物質)、特に「体」を愛せよと言っています。創世記でもすべての物質界の「創造」をする度に神はそれを見て「良し」とされた、とあります。福音書を見ても、ヨハネの福音書にも、「言(ロゴス)は肉となって、私たちの間に宿った」とあります。神は肉体の次元に至るまで完全に人間になられたのです。だからキリスト者として肉体が「良い」ものではない、蔑視すべきもの、無用なもの、二次的なもの等と断言できません。「イエスは神である」という教義と両立できません。イエスは細部に至るまで「肉体」でした。パウロも「あなた方の体は、神から頂いた聖霊が宿ってくれる神殿」(1コリント, 6,19)と言っています。
sekko : 確かに、イエスの「肉体性」はキリスト教世界のイコノグラフィでも強調されていた。最初は「復活後の栄光の体」として描かれていた磔刑図も、血を流し苦しみまくる生身の姿になったし、史実に合致する
全裸像もたくさんあったし、聖母子像でも、聖母が裸の幼子イエスの世紀を指さしたり強調したりする絵柄も少なくなかった。(ミケランジェロの最後の審判図などと同様、後で布で覆われることが普通になったり、全裸の磔刑を撮影した『最後の誘惑(1988、マーティン・スコセッシ)』も物議をかもした。)
同時にその肉体性ゆえに、イエスが神と「同時に」人間であるという教義の基本が定着するまでに多くの「異端」が排斥された。(『キリスト教の謎』(中央公論新社)第三章)
この肉体性って、やがては朽ちるこの世でのこの体は夢幻、みたいなかなり普遍的なイメージを強引に覆すもので、こんなものが世界宗教になったのは驚くべきことだと言える。その意味では、ギリシャのストイシズムで「肉体軽視」に「緩和」されたことでむしろ受け入れやすくなったのかもしれない。
(続く)