(前の記事の続きです)
Q : 復活のイエスについての記述は、私たち自身の復活についてヒントを与えてくれますか?
A : 福音書はその簡潔な書き方によって、我々のイマジネーションを喚起します。実際の形を描けないので概念化しようとするのです。パウロはそれを最初にしました。コリント人への第一の手紙の15章です。これは我々が「復活」する時にまとう「栄光の体」を示唆しています。トマス・アクィナスは神学大全の義人(4, 84-88)で、それを敷衍して、栄光の体とはパーフェクトなもの、つまり完成形、理想形とします。つまり、我々の現実の肉体の欠陥を挙げ、それを克復して苦しみから解放された、腐敗しない体を作る方法を模索しながら、「成就した肉体性」のモデルを示しています。
Sekko : 「復活」とか「栄光」とかいう神学っぽい言葉を使っているにしても、結局は、誰でも、自分よりも先に苦しんだり死んだり朽ちたりする他者を見ることで、できることなら自分はそれから逃れたい、というごく本能的な願望を持ち、まあそれは「無理」だとは経験値で理解しているので「復活」後の身体状態にせめて期待する、ということだろうか。病や事故や戦争や天災で若くして死ぬのは別として、普通ならだれにでも「経年劣化」は起こるのに、死後まで視野に入れてやがては「完成形」に向かうとか、到達するとか思えてしまうだけで、人間ってすごいなあと思う。「永遠の若さを」とか「現実より理想に近く」などは、美容整形、各種コーチングからデジタル・アプリによる自分の写真加工まで、いまだに「ビジネス」になるのだから、何が「宗教」なのか分からない。