第二次世界大戦の終わり、フランス開放に当たって、ノルマンディ上陸作戦のことはよく知られているけれど、南ではサントロペに上陸した後、僅か2週間でマルセイユとトゥーロンが解放された(1944/8/28)。
モロッコやアルジェリア(フランス領だった)からの軍の他に、内地からは米軍を率いたド・タシニー将軍がフランス軍として指揮だけでなく実際に戦った。ドイツ軍も気の毒といえば気の毒で、15000人も駐留していたのに中央からはもう何の指令も出ず、降伏することも撤退することも許されずただ捨て置かれたようなものだったらしい。
この時のマルセイユの人々のレジスタンスはすごくて、その愛国的熱気は、全員ゼレンスキーですか、という感じだ。パリのようにドイツ軍占領下にあったわけでなく戦争末期に自由フランスエリアである南仏にドイツ軍が侵攻したのだから、「コラボ」のような裏切り者が出る暇もなかったろうから結束も速かったのだろう。
5000人のドイツ兵が死に、フランス側も1500人が死に、市民にも何百人もの犠牲者が出た。
熱心なカトリックだったド・タシニー将軍が解放後真っ先にしたのは、丘の上にあるノートルダム・ド・ラ・ガルドバジリカ聖堂(BasiliqueNotre-Dame-de-la-Garde)で感謝ミサを捧げることだった。彼は解放軍の英雄になったが、この勝利はすべて「Elle(彼女=聖母マリア)に帰するという銘板を残している。実際、高台で戦闘を見下ろせるこのカテドラルは戦略上決定的な役割を果たしたという。
それにしても、戦争末期に壮大な「無駄死に」があること、それなしには終わることができなかったという状況は、昔からどこでも繰り返された不条理だ。
けれども、プロヴァンスでの戦いは、ノルマンディ上陸に続く戦いよりは傷が浅かったようだ。連合軍がノルマンディからパリに向かって進撃する時は米軍の空爆が主で、当時から知られていたように、米軍は無差別爆撃を行った。避難中のおや子連れも容赦なく吹き飛ばされた。第二次世界大戦でのフランス市民の戦死者のほとんどはドイツ軍による攻撃ではなく米軍によるものとなった。市街地の破壊も同様だ。
それに比べたら、マルセイユの死闘は、ド・タシニー将軍の采配のおかげで、犠牲者を抑えられたというわけだ。(彼は親独ヴィシー政権下の将軍だったが、ドイツ軍侵攻の後ド・ゴールの自由フランスに合流した。)
実際に戦闘に参加し、フランス人将軍として唯一米軍を指揮した彼がいて、その後のドイツ降伏の調印にもアイゼンハワーなどと一緒に同席したからこそ、「フランス=勝ち組連合軍側」という戦後の立ち位置が確定できたわけだ。
ウクライナ戦争が始まって半年、過去の戦争のドキュメンタリーを視聴する度に胸が詰まるし、既視感に襲われる。
過去の記録がこれほど拡散しているというのに、誰も「学習」しないのかと思うと暗澹とする。
(ブルガリア帝国とオスマン帝国の戦闘について哲学者の誰かが、皇帝同士が一対一で「決闘」すればいい、なんて言っていたそうだが、いろいろな意味で、笑えない。)
これを書いている8/24、ウクライナ独立記念日で、ゼレンスキー大統領が、「戦争の終わりは平和ではない、戦争の終わりは勝利だ」と言っているのを見た。勝ち負けって、何だろう。
(私が高校生の時、保護者面談で教師に会ってきた母が先生に「お宅の娘さんは競争心というものがゼロだ、生きていくのに少しは競争心がないと」と言われた、と言っていた。教師にそこまで言わせたのは何だったんだろうとも思う。)