先日来、エリザベス女王の逝去、服喪、葬儀を見ていて、コモンウェルスと旧植民地と旧宗主国との関係をいろいろ考えていたのだけれど、その後で興味深い論考に出会った。
尹海東『植民地がつくった近代』(沈煕燦・原祐介訳、三元社、2017 年 4 月)という本。
厳密には「本」を読んだわけではなく、書評だけを読んだのだけれど、それでも、これこそが最も建設的で正しい、「平和」の構築につながると思ったのでここに記録しておく。
書評 尹海東『植民地がつくった近代』(沈煕燦・原祐介訳、三元社、2017 年 4 月) 桂島 宣弘
全編、この著者でなければ得られなかった視点だと思う。
書評の導入部分を少し。
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「植民地近代」という概念を理解するためには、第一章と第八章がとくに重要だ。第一章では、尹にも強烈な記憶を残したハリウッド映画『戦場にかける橋』での捕虜 監視兵として動員されていた朝鮮兵の姿をとおして(そして、それによって朝鮮・韓国をイメージしている現代のシンガポールの人びとをとおして)、「『植民地』としての朝鮮 が、ただ『植民地としてのみ』とどまっていたわけではなかった」ことを尹はのべる(29 頁)。だが、ここで重要なことは、こうした動員にさらされた朝鮮人の体験は、「被 支配と他者への侵略を一つの体に具有する‥‥分裂」(「植民地分裂症」)を示しているに 止まらず、それが戦後の韓国社会に継承されていったとされていることだ。何故なら、尹はこの「分裂」を(植民地朝鮮に止まらず)むしろ近代自体の問題と見ているからである (「人間的な侮蔑に耐えた上で同じようなことを他者におこなう近代の野蛮」[32 頁])。 つまり、植民地においても「近代合理性」(マックス・ヴェーバー)は「内面化」されつ つあったが、それに根ざしている植民地権力に対しては拒否・抵抗する「分裂」が、この朝鮮兵の姿に、そして戦後韓国社会のさまざまな場面に見出されるとするならば、それこ そ「近代の分裂」した思惟そのものだというのだ(ということは、この「分裂」は、発現形態が異なるとはいえ、当然日本でも見出される問題でもある!)。つまり、尹の「植民 地近代」は、植民地朝鮮であればこそ、朝鮮兵、満州国官僚となった朝鮮人、戦後韓国社会の様相など、より鋭角的に近代の問題を映し出しているということを主張する概念なの である。
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第二次世界大戦の末期に、フランス軍のアルジェリアやモロッコ師団が、自由フランスとしてナチスと戦ったことについて前に書いた。でも、彼らがナチスに負けていたら、あるいはヴィシー政権のフランス軍だったら、などといろいろ考えてしまう。
繰り返して読みたい。
勝者と敗者、支配者と被支配者、権力者と隷従者などという二元論的見方を離れるべきだとはわかっているものの、「植民地近代」を認めてトランスナショナル・ヒストリーに止揚する方向性だけが真の平和につながる普遍主義の道なのだとあらためて思う。
理想的にはやはり究極を生きたシモーヌ・ヴェイユの残した言葉だ。
もうすぐ、外国人労働者の奴隷同然の使い捨てや、エコロジー問題も堂々と無視したカタールのサッカーワールドカップが始まるが、強い者を称賛するという本能的なものと、強い者に莫大な金が集まる、というのがセットになって、ますます「強い者」と「金」が崇められていく構造がある限り、戦争は終わらない。