9/27、いつもより遅く午後8時に始まったMEPの講演に行った。
Zoomの時代は終わって、マスクなしの聴衆でぎっしり。
テーマはこれ。この写真は、講師のヴァヌー神父の撮影したもので、美しい。
彼は、言ってみれば「インドに恋した」西洋人の典型だ。話している時も笑みを絶やさず、時々目を細目て瞑想中のような雰囲気のまま語る。
最後は、先輩に締めくくってもらうのが「伝統」だそうで、インドに宣教師として70 年滞在しているアメリカ人宣教師があいさつした。元気でユーモアも交えて、彼らを見ているとみなユートピアから来ているような錯覚が起きる。
彼らが一様に師と仰ぐのはアンリ・ル・ソーHenri Le Sauxという宣教師で、この人は、ベネディクト会修道士なのにインドに行って帰ってこないのでブルターニュにいる母親が心配したほどにインドの生活に入れあげて、もう見た目がガンジーと変わらない。上半身裸でがりがりに痩せている。
ミサを挙げるときもこんな感じ。
それでも一生カトリックの宣教師としての身分を持ち続けた。でも、皆、ヒンドゥ教の文化と完全に溶け込んでいる。もちろん亡命のチベット仏教者やムスリムやジャイナ教徒とも溶け込んでいて、キリスト教徒がイエスの体として一つ、というように、ここでは何教徒でも、インドの大地とひとつ、というそれだけだ。マザーテレサが女神のように尊敬され祀られていたように、宣教師や修道女たちも人々の尊敬の的になっている。そんなこともあって、宣教師たちも、神々の宇宙を共有している。そういえば、ヒンドゥ教の学者が、ヒンドゥも超越神の宗教です。神々は創造神の化身なのです、と言っていたことを思い出した。(終わりにリンク)ルター派などのプロテスタントの宣教師はどう考えるのか分からないけれど、聖人崇敬を取り入れたカトリックの宣教師には違和感のない世界なのかもしれない。
11月に3年ぶりに日本に帰る時、95歳のベルギー人宣教師の友人に3年ぶりで会う予定だ。彼も70年日本にいて、完全に日本のメンタリティと一体化しているように見えるけれど、もし彼がインドに派遣されていたらどうなっていたのだろう。
ヴァヌー神父が言ったことで、なるほどと思ったのは、宣教師は宣教地の人々や文化や空気と、織物を紡いでいるように生きているという表現だった。キリスト者対異教徒とか、よそ者対現地人とかの「関係」を築くというより、共に紡いだ織物を残すのが使命という感じだ。
その共感ぶりが半端ではなく、「アイデンティティとしての閉鎖されたキリスト教」でなく外に開かれたキリスト教、根っこの部分が深いからこそどこにいても枝葉が茂る、と強調していた。一方でそれを「征服するキリスト教」とも表現していたのは違和感を覚えた。スピリチュアリティを拡大するところでは、イエス・キリストのミステール(神秘、秘跡)こそが最終的に明らかになる、という実感なのだろうか。
(続く)