「在りし日の歌」で、中国が市場経済に参入して国営産業が縮小し、リストラがなされるシーンがあった。フランスではずっと地元に溶け込んでいた工場が人件費の安い中国に移転されることで閉鎖されるという悲劇がよくあった。
「在りし日の歌」では、主人公のカップルが30年の間に故郷がすっかり豊かになり近代化しているのに驚くシーンがあるのだけれど、この中国の「繁栄」っていったい何だったのだろうと、考えさせられた。
思えば、2003年にアメリカがイラク侵攻を国連で訴えた時(この時、シラクとヴィルパンのフランスは断固反対を貫いたこともあって国連軍は参加しなかった)、アメリカのお題目は、サダム・フセインの専制からイラクの民を「解放」して、「消費」する権利を享受させよう、というものだった。そう、「消費」という言葉を使っていたのだ。
自由、解放、経済成長のシンボルとして「消費社会」「消費者行動」がある。
店がたくさんあって、商品がたくさんあって、エッセンシャルでないものがあふれていて、オンラインではもっと際限なくあふれていて、「足るを知る」など遠い話。
14年前、母が集中治療室にいた2週間半の間、品川から箱根(旅先で倒れた)まで何度も往復して、にぎやかな街でショッピングに夢中になっている若者を見るたび、非現実的な気がしたのを覚えている。自分が華やかな世界から取り残されているというのではなく、街を覆いつくしている「消費社会」が幻のように見えたのだ。
生と死の間、というより、「死」を射程に入れた「生」、生まれる前と生きた後とをトータルにとらえる「生」の方が明らかに本物に見えた。
あれから14年、東日本大震災もあったし、コロナ禍もあった。でも、あの時に実感した「存在の根っこ」みたいなものとは相変わらずつながっている。
インドで隠遁した宣教師アンリ・ル・ソーが、旧約聖書や新約聖書よりもずっと前に神とかわされたコスミックな(宇宙的)契約があることをインドで発見した、という趣旨のことを書いている。
彼が出会ったミステールを理解できるかどうかは分からないけれど、経済原理で動く「消費社会」と「消費行動」がそこから遠い遠いところにあるのは確信できる。