この予定稿を書いているのは日本に出発する1週間前だから、もはや「旧聞」だろうが、忘れないようにメモ。
10/10、ヨーロッパ議会の薬品業界への公聴会で、オランダのEU議員 Rob Rossがファイザー社を代表しているJanine Smallに「ファイザー社のCovidワクチンは、市場に出る前に、感染させる確率を減らすというテストをしたのか」と質問した時に「ノー」と答えた。以来SNSで、「なんという告白」「ワクチン試験のでっち上げ」などとスキャンダルになった。
実は、「感染しても重症化しない」ということは喧伝されていたけれど、「感染しにくい」「感染させにくい」というのはもともと確定していず、それを知っていてワクチン接種を拒否したことで職場を追われた医療関係者も出ていた。
彼らは感染させられるリスクを負いながら、患者のために働き、2020春の外出規制の時には英雄として毎夕拍手されていたのだ。それなのに、2021年にワクチンが登場してからは、ワクチンを拒否して患者に感染させるリスクをおかすのは医療者としての倫理にもとる、という形で職場を追われた。
ワクチンのほぼ義務化キャンペーンは、フランスではサニタリー・パスという形で人々の行動を制限してきたが、そのキャンペースのベースには必ず「感染しない、感染させない、重症化しない」という三つがセットになっていた。
健康で免疫力も強いと思われる若者たちには特に、「あなたの周りの人のため」というのが強調されていたのを思い出す。「ワクチンを打たないことで自分が感染してもそれは自己責任だから引き受ける」と言いたい人も、「『お年寄りなど重症化リスクが大きい他の人に感染させない』という選択を拒否するのはエゴイズムだ」と言われてきた。
ある意味で、「自分さえよければいい」という利己主義が「良くないもの」だというコンセンサスがまだ残っていたことの方に軽く驚かされる。
しかし、「あなたの大切な人を守る」ためというキャンペーンの行く先には、「公共の福祉」とか「公共の秩序」とか「公共の善」のためには個人が意に反したリスクを負うべきだという行動パターンへの「自主的」合意がある。
私自身は世間的には「重症化リスクの高い高齢者」だからある意味で楽だったけれど、もし両親が「超高齢者」で存命だったら、「リスクゼロ」で接していただろう。いや、リスクゼロのためには、ワクチンどころか、「会わない」の一択だったろうなあと思う。逆に小中学生の生徒たちにはずっとマスクなしでレッスンを続けていた。彼らが「感染」しても、私の方が感染源として疑われるリスクはなかったからだ。子供たちの精神衛生にも親たちの精神衛生にも貢献できたと思っている。
ファイザー社の「告白」と言っても、彼らが虚偽の試験結果をでっちあげたというより、あのキャンペーンの「嘘」はもともと政治案件だったのだろう。そして今の「政治案件」とはみな「経済案件」でもある。
「政治案件」や「経済案件」が「公共善」を語る時はいつも最大限に注意しなくてはならない、とあらためて思う。