これまで、いわゆる「茶席」に寄せてもらった体験は多分二度くらいしかない。
「作法」に気を取られて、茶器にコメントするような余裕も気持ちもなかった。
高価な茶器のコレクションをしている知り合いもいたが、私のイメージとしては信長が他に与えるものがなくなったのか論功行賞として茶器を採用してから箔だけがついて権威のシンボルとなって美術品としてはバイアスがかかっているのでは、というものだった。関心のあったのは利休にまつわる話やキリスト教や易思想との関係、などだった。
特に、3 年前に心斎橋の古書店で購入した関根宗中『綜合藝術としての茶道と易思想』(淡交社)は刺激的だった。(本の写真はこの記事の終りにある)
一方、茶器についてはずっと無関心(金継ぎを除いては)で来たのだけれど、古田織部という人の茶器を知った時には驚倒した。
こういうタイプの柄や形の茶器は、近代以降のものだという先入観があったからだ。
私が茶道に抱いていた、動かせない作法という選民アイデンティティの文脈で使われる茶器は繊細で上品で完璧なフォルムというイメージはただの無知から来たものだったのだ。
でもこうして観てみると、すでに音楽や演劇に発見していた安土桃山文化とカトリック世界のバロック美術との関係をあらたに確認できる。そういえば、易思想との関係の本にも茶道は「官能の美」とあったっけ。
(下にリンクしたブログで歴史もたどれるし写真をたくさん見ることができる。このブログ主さんは団塊世代の方で、緻密な編集が素晴らしい記事をたくさん残しておられたが、癌で亡くなられたという。)