小中学校ぐらいによく読んだミステリーはドイルのホームズ、アガサ・クリスティのポワロやミス・マープル、チェスタートンのブラウン神父などの定番の他のお気に入りはディクスン・カーとウィリアム・アイリッシュ、フレドリック・ブラウンの3人のものだった。
今こうして並べると、最初の3人はイギリス人で少し前の世代、「お気に入り」の3人はそれより後で20世紀生れのアメリカ人。
でも私の頭の中の「翻訳ミステリー」はまとめて別世界の国籍を持っていた。
秋に日本に行った時、青山ブックセンターでフレドリック・ブラウンの新訳というのが文庫本で出ていたので何となく懐かしくて買った。
『不吉なことは何も』(創元推理文庫)
短編なので少しずつ読むつもりがつい続けて読んでしまった。
彼のショートショートが大好きだったから、1964年に出た『復讐の女神』も絶対読んでいるはずで、今回読み返すと思い出すのではないかと思ったけれど、まったく、きれいに記憶が消えている。犬や猫や象を登場させている短編が新鮮だし、近頃の小説と決定的に違っているのは「携帯電話」が出てこないことだ。
携帯の有無で事件のシチュエーションを全く変えてしまう場合があるけれど、読んでいる間はそう違和感がなかった。それでも、「携帯電話」の普及は、人間関係だけを考えるとその後のネットやSNSなどよりも決定的だったかもしれない。
電話連絡さえついていたらあり得なかった不安、諍い、行き違い、別れの記憶がある世代の人は少なくないのではないだろうか。
そういう意味では、トリックや操作方法も今では成り立たないものもあるのだけれど、やはりブラウンの筋書きは優れている。昔はただ、おもしろいと思って消費していたのが、今は、「一体どうしたらこんな風に組み立てられるんだろう」という驚きの方が大きい。一つ一つの短編やラストの中編『踊るサンドイッチ』の切れ味の鮮やかさは単なるアイディアの勝利ではなくて、知的作業と職人技と霊感とが出会ってできた奇跡みたいに思える。
(今思うと、フランス語の翻訳物ミステリーはモーリス・ルブラン、ガストン・ルルー、SFのジュール・ヴェルヌの3人をよく読んだけれど、彼らはブラウンより前の世代だ。全員のベースにいるエドガー・アラン・ポーはさらに過去の人だ。少女時代の私が翻訳を通して、アメリカ、イギリス、フランスのミステリーの感覚の違いをどの程度把握していたかは不明だ。他の新訳も機会があれば読んでみたい。)