"Le crime impuni est le crime récompensé."
という言葉を耳にした。レバノンの弁護士の言葉で、レバノンではあらゆる訴訟の運命を決めるのは政府なのだそうだ。権力が検察や警察に介入し「起訴」そのものを差し止めるような国(「忖度」を押しつける国)もあるようだが、レバノンでは都合の悪いものでもさっさと(?)裁判をして無罪にしてしまうという。
そして、それは、単に無罪を勝ち取るだけではなく、上の言葉のように「罰せられない犯罪は報われる犯罪である」、つまり、被告は権力のお墨付きというか、原告よりも上に立つという現実がある。弁護士が嘆くのは無理もない。
これを聞いて思ったのが、ロシアによるウクライナ侵攻での傭兵集団ワグネルのことだ。
ワグネルが刑務所に出向き、志願兵を募っていることは有名だ。
ある男は、10年前にある家に押し入って、住んでいた人を拷問した後で殺し、23年の懲役刑を課せられて服役中だった。その男がワグネルの徴集に応えて兵士としてウクライナに入った。その結果、片脚の膝から下を失う怪我をしてロシアに戻された。そして
戦争の「英雄」として表彰されプーチンから勲章をもらい、もちろん年金付きの自由放免の身となった。それをテレビで見た、10年前の被害者の従姉は、衝撃と怒りを覚えてふるえた。
刑期を終えたとしても、惨殺された被害者は戻ってこない。それが、刑期の半分も終わっていないのに、「国家の英雄」とは。
プーチンからすると、ワグネルの囚人兵は捨て駒として便利だし、「大事な息子」を徴兵される親たちを相手にしなくてすむという点でも便利だ。
元殺人犯の中にはこれでどうせ無罪放免になるのだから、「戦地」では敵や民間人を殺しまくることでカタルシスを得ようとする者もいるかもしれない。でも運悪く片脚を半分失うほどの戦傷者となれば、「英雄」だ。
まさに、罰せられない犯罪は、罰せられないだけではなく、栄光で報われるという例だ。
いじめのことも連想した。いじめや各種のハラスメントは、罰せられない場合は、むしろ自分の優位を証明するものとなることがある。
ヤクザだって、敵を叩きのめしたり殺したりしても、無事帰ってくれば、傷だって「勲章」になる。
では、イエスが自分のところに引き立てられてきた「罪の女」の石打刑を求める人々に「あなたたちのうち罪のないものが最初に石を投げよ」と言ったら、一人、また一人と去っていったという有名な話が福音書の中にあるけれど、あれは?
「罪」と「犯罪」は違う。犯罪はその時代と場所の社会が決めるものだ。それによって量刑され科刑される。犯罪にもいろいろあるけれど、他人の命や所有物や尊厳を奪う、というのは人間の社会生活を維持する基本的な犯罪だろう。
罪の方は、もっと主観的なものも含む。罪悪感というのはだれでも持ちうるし、「罪深い人」と言われる生き方をする人もいる。
いわゆる「復讐するのは神だけだ」というのは、社会は「犯罪」の規定で成り立っているけれど、その「罰」や「罰の執行」は、「良心」にとって重いものとなる可能性を示している。「律法」ではなく「良心」に照らしてみると、誰でも心に「やましいもの」があったということだ。
冤罪の可能性がゼロでない限り、権力者が決める「死刑」は廃止すべきだし、「死刑」を廃止している国なら、武器や軍隊も廃止しないと片手落ちだといつも思う。
レバノンの弁護士の話を聞いたことで、まる一年にもなるウクライナ戦争のことを思い、聖書や死刑制度にまで連想が広がった。
世の権力者たちは、二千年前のパレスチナの律法主義者ほどの「良心」も持ち合わせていないのかと思うと、失望を禁じ得ない。
(続く)