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L'art de croire             竹下節子ブログ

パリ人肉事件

「パリ人肉事件」の佐川一政(以下S)が昨年11月に死亡していたことを最近知った。

思い出したくもないことだが、そして、一、二度書いた記憶があるのだが、このブログでは検索しても出てこない。


一度目は、河出書房の雑誌か何かで、彼の対談が載っていて、その中で自分の起こした事件をネタにして「焼き肉屋でもやろうかと思っている」、などと言っているのを読み、胸が悪くなって、絶対に河出書房とは仕事をしたくない、と思った時だ。

二度目は彼に関するドキュメンタリーをフランスのテレビで見て、ポルノ映画に出ているというシーンで、気持ち悪さよりどうしようもない憐れさを感じたことと、被害者の兄だったかのインタビューで、はっきりとは言わなかったが、ああ、被害者の家族は、Sの親から莫大な慰謝料をもらって口をつぐんだのだなあ、と思った時だ。

どんな示談でどんな約束が交わされたにせよ、まさかSが、一生「事件」をネタにして暮らすなどとは想像もしていなかったに違いない、忸怩たる思いだろう。

今となってはもうお名前も思い出せないのだけれど、知り合いの日本人の大学教授がパリ大学で夏目漱石の講座を受け持った時のこと。日本語での講義なのだけれど彼は私にも来てほしいということだったのか、私ははじめて日本語学科の講義に顔を出したことがある。日本語の講義が理解できるくらいのレベルのフランス人学生の中に、日本人が一人いた。ラフな格好の学生たちの中で、一人三つ揃いの背広を着たSは、小学生のように小柄で痩せていた。それなのに体にぴったりしたスーツに黒く光る革靴という姿は、今思うと、すべて特別誂えだったのだろうが、強ばったような無表情と共に異様だった。私が日本人ということで彼が話しかけてきたが、私はこういうタイプの人とは距離をとることをすぐに選択した。

ところが、あるフランス人女子学生は、日本語のことで質問したいときに、私でなくSに話しかけていた。S は顔を真っ赤にして答えていた。誤解されるとまずいからやめればいいのに、と思ったが、注意したかどうか覚えていないSが何か勘違いして期待している様子が心配だったが、その彼女は間もなく日本に留学したのでよかった。

私はできるだけ離れていたが、その頃、日本から島田謹二先生が国際交流基金の招待でパリ大学に来て講義をすることになった。島田先生を受け入れる日本語科の主任教授は大役に緊張して、当時まだ現役の東大博士課程の学生だった私に、島田先生の世話を一緒にしてくれと頼んできた。大学のそばのカフェに先生を囲んで話した時にSも参加していた。その時も、自然体の先生とリラックスして話しながら、がちがちになっているS の視線を感じた。


私はナポレオン好きの島田先生とフォンテーヌブローに行ったり、ワーテルローに行ったり、フランスの英文学者の跡をたずねたりした。二世代離れていたけれどすっかり意気投合して、ポーの訳詩をプレゼントされたり、「英語青年」にその時の旅のことを書いてもらったりした。1978年だったと思う。


その後で私は博士課程の単位の残りをすべて取得するために日本に一時帰国した。

再びフランスに戻って一年ほど後に、ある日、知り合いの日本人のうちで新聞を見せられた。その新聞の一面にSの写真が載っているのを見た時の背中が凍るような衝撃は今も忘れられない。

大ニュースになったので、当時フランスにいた日本人女性がフランス人の友人をうちに招いた時に、「冷蔵庫の中に誰かがいるんじゃない ?」とブラックジョークを言われるような時期があった。


その後の展開で印象に残ったのは、彼が「自分はやっていない」と父親に言い、父親がその言葉を自分は信じる、とどこかに書いていたことだ。父親はすべてを投げうってSを守ろうとした。

それなのにSは、「自由の身」になると、人肉食をネタにしたのだ。


被害者の女子学生の親の身になって感情移入することは恐ろしくてできなかったが、Sの両親のことを考えると絶望的につらかったのを覚えている。Sのことを商売にしたり「猟奇犯罪評論家」などとしてインタビューしたりするようなメディアの低劣さにもショックを受けた。


これまで、私が言葉をかわしたりそばにいたりした人の中には、明らかに精神を病んでいた人もいたし、そのことに後から気づいたこともあった。また、人の心の中は読めないから、誰がどんな猟奇的なことを考えていたとしても、実害がない限り気づきもしない。


その中でSは最初に話しかけられた時から、その後の展開に至るまで、異様で異常だった。あれから40年以上も経ち、Sが世を去ったことを知り、何かが「軽く」なったように思えたのは気のせいではなかったような気がする。全てがpathétiqueに過ぎる人生というものがあることをあらためて知る。


by mariastella | 2023-03-23 00:05 | 人生
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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