ひろゆきさんと成田さん水谷史男さんのブログで、≪「オワコン」の日本を「ディスる」カリスマ≫というエントリーに、岩波書店『世界』2023年3月号からの引用ということで伊藤昌亮さんの「ひろゆき論」という記事が二度にわたって紹介されていた。 これと これ 。
この記事で取り上げられている「ひろゆき」さんとか成田悠輔さんの名前は最近知るようになった。 西村博之さんの方は雑誌でひろゆき式論破法などを見聞きしていたし2ちゃんねるの創始者というのも知っていたけれど、別に関心を持っていなかった。「今ふう」の軽い人というくらいの印象だった。(以下敬称略) で、まず、前述のブログから「ひろゆき論」の孫引きをしてみる。
>>彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いものだ。 しかしその信者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。 そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでのコミュニケーションを介した情報収取能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長けた者であることが強調される。 そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の信者をさらに熱狂させることになる<<
なるほど、でもそもそも今時、知識人などが権力につながったり優越感につながったりするものだろうか。「知識人」や王道ジャーナリストを冷笑したり論破したりすること自体が「うける」とも思えないのだけれど。
政治的公正やウォーキズムなどで混同されてきたけれど、「弱者」と「マイノリティ」とは必ずも一致しない。歴史や社会にもよるし、ロビーを形成しているかどうかによって全く変わってくる。
また孫引き。 >>弱者とは誰かという点では、一般にリベラル派は、特に二つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる。その一つは従来の福祉国家論の立場であり、そこでは社会保障や公的扶助の主たる対象者として、高齢者、障害者、失業者などが想定されている。もう一つは近年のアイデンティティポリティクスの立場であり、そこではとりわけジェンダーとエスニシティに関わるマイノリティとして、女性、LGBTQ、外国人などが想定されている。 加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含まれることになる。 これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の「弱者リスト」の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような「ダメな人」は、そこにはほとんど含まれていない。「コミュ障」「ひきこもり」「うつ病の人」などだ。そうした人々は、リベラル派のプログラムでは救済されることがない。そのため、それに従っても意味がないと考えてしまうのだろう。 次に弱者とはどうあるべきかという点では、一般にリベラル派は、とくにマルクス主義の伝統に親和的な見方をしてきたように思われる。弱者とは搾取されるばかりの存在であり、したがって連帯し、運動し、集団として権利を主張しなければならないとする見方だ。 こうした見方は、しかし「ダメな人」を力づけるものではない。そこでは弱者が、搾り取られる側の存在として規定されてしまっているからだ。そもそも「横並び」が苦手な「ダメな人」たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう。 一方で彼の議論では、各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのやり方も教えてくれる。だとすれば、集団としての権利よりも個人としての利益を得るために立ち上がるほうが、やる気も出るし、現実的だということになる。 こうしたことから「ダメな人」たちは、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その「弱者観」は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ。 しかしリベラル派はそうした見方にこだわり、自らの「弱者リスト」の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で彼らは分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか。 そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家という体制そのものに疑義を呈する。その結果、「大きな政府」を否定し、ネオリベラリズムを支持することになる。<<< >>>このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルヒーを転倒させ、信者の喝采を調達することに成功している。しかしそうしたやり方は、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものなのではないだろうか。とくに二つの点から考えてみよう。 第一に、差別的な思考の増幅という点だ。 つまりそこでは分断に基づく憎悪が、ある種のデジタルデバイド、それも恣意的に設定されたそれに基づく「情弱」への軽蔑として提示されるため、高齢者や障害者など、より本来的な意味での弱者が差別のターゲットとされやすい。そもそもそうした存在は、福祉の分配先として大きな位置を占めているため、憎悪を向けられやすいうえ、とくにデジタル化を無条件に是とするようなイデオロギーの中で、「情弱」への対処として差別が正当化されてしまいがちだ。 その結果、弱者の味方をしているつもりが、より本来的な意味での弱者いじめを堂々としている、しかもそのことに気付いていない、ということにもなりかねない。 第二に、陰謀論的な思考の増幅という点だ。 かつて2ちゃんねるがスタートした当初、その利用者の資質について彼は、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」と語っていた。そこには「情報強者」の条件が端的に示されていたと言えるだろうが、しかしこの条件を完全に満たすことのできる者は、実際には存在しないだろう。 ところが彼の信者はそうした存在になろうと努め、何事にも騙されないよう、何でもかんでも疑ってかかるようになる。その結果、ニヒリスティックな価値相対主義の考え方に基づき、何事も信じないという態度を共有する集団ができあがってしまった。 しかし実際には彼らは、何事も信じないという考え方を疑いもせず信じ込んでいる集団に過ぎない。つまり価値相対主義の立場を絶対化している集団であり、したがって本質的には「信じにくい」集団ではなく、むしろ「信じやすい」集団だということになる。<<<
うーん、どうだろう。「既成」のものを何も信じない、疑ってかかる、という生き方は、今だけでなく、いつの時代の若者も惹きつけてきたと思う。 で、いろいろ考えさせられていた時、このひろゆきと今、大人気らしい成田悠輔が各界の人を招いて雑談する動画のシリーズをいくつかネットで視聴した。日経テレ東大学のリハックとかというやつだ(最近終了したらしい)。面白いのでつい次々とみてしまう。 2人とも、一昔前のニューアカの論客のようにスマートで軽く、見た目も話し方もソフトで心地よい。特に成田の声は快い。 ゲストから「本音」を引き出しているように見えるのも新鮮だが、そもそもこの2人の招待を受ける時点で、彼らの世界に居場所を見つけるという「やる気満々」なのだろう。そしてこの2 人は「お笑い芸人」のようなディスり方をするわけでなく、「目上」の人の前ではそれなりの「保身」が働く様子も見えて「かわいい」と思うこともあった。10 歳違う二人のスタンスの取り方もほほえましいと思えた。 成田は経済学者だが社会学者のようなノリで、例の「高齢者集団自殺」発言でも、経済学的観点より社会学的観点に立脚しているように思えた。でも「じっとしていられない」とか「音に異常に敏感」だと言っているからADHDでASDなのかもしれない。それで「空気を読めない」ところがかえって魅力的だと見られているようだ。 空気を読めない「一般人」なら非難されるシーンでも、「天才」「エリート」と認定されている人の「ずれ」なら人気の要素になるのは興味深い。 成田の実弟が出てきて家庭の話をしたものは興味深かった。 弟は兄からすべてを学んだと言っていて、中三の時に小林秀雄だったかの本などたくさんもらい、兄が大学に入ってからは大学の講義にも潜り込んでいたのだという。それで、家庭的には父の失踪、母の病気などでかなり「悲惨」なのだけれど、弟は兄や自分が同世代の他の人と「違う」ことに気づき、知的優越さえあればどんな困難でも乗り越えられる、と早くから思っていたのだそうだ。
なんだか私と兄のことを思い出した。私は兄から美術、音楽、語学、文学、思想、すべてを習ったからだ。子供の頃からプログラムを組まれて教え込まれた。兄が大学に入った時には社会思想史や哲学で新しいこともたくさん学んだ。私たちのイメージは、何となく、二人の兄たちから英才教育を受けてきたという『フラニーとズーイ(ゾーイー)』(サリンジャー)だった。でも、兄は、フラニーに対するズーイにはなれても、二人にいろいろな世界を教えた年の離れた兄たち(バディとシーモア)にはなれない。で、私に教えることをもっとストックできるようにと「留学」を決めた、と私は了解していた。(兄が覚えているかどうかは分からないが) そして私はそんな兄と私が「同世代の他の人」と違うことには早くから気づいていたし、成田の実弟のように、私はいつも甘やかされてお花畑の中に生きていたから人生の試練に弱いと心配(余計なお世話)する人もいたけれど「頭さえよければサバイバルできる」と何となく考えていたからだ。 で、どうなったかというと、長じて、この世にはいくらでも、私などたちうちのできない秀才もいれば天才もいるということを知るようになった。幸い私は「お稽古事」をやっていたから、好きな楽器演奏や踊りで明らかに私と「出来の違う」同輩がたくさんいることにすでに気づいていた。(それに気づくくらいのレベルにはあったわけだ。)それが純粋に知的な分野でも同じだと納得できたのだ。 それでなくても、高校までは何の予習も復習も必要としなかった「英語」の勉強と違って、大学でとったギリシャ語では必死で予習しても全部翻訳できないという経験をはじめてした。 実際の交流でも、書物を通しても、極めて能力の高い人たちが古今東西、綺羅星のように存在していることを知り、人生はますます刺激的なものになった。 そのうちにたどりついたのは、人は、能力の多寡にかかわらず、自分が一番他の人の役に立つ部分で貢献していけばいいのだという納得だった。 たとえば今もう30年も、子供たちにピアノのレッスンなどしているけれど、私は音大も出ていないし、たいして弾けないし、難曲を弾きこなしたことも目標にしたことすらない。けれども、音楽院のシステムの中で音楽離れしていく子供たちをケアして、人生における音楽の喜びやテクニックの習得における動機付けを伝えるという点では、十分役に立っているし、私もたくさんのことを学び、喜びももらった。 結局、ぎりぎりのところで指針となるのは、相対的に強い人の「強さ」は相対的に弱い人を支えるためにあるのだということだろう。 若者が高齢者よりも体力や気力があって生産性もある時は、その「強さ」を高齢者を護るために活用すればいいし、高齢者が若者よりも「亀の甲より年の劫」で経験や知恵がある時は、その「強み」を若者たちの役に立つように提供すればいい。 「相対化する」というのは判断の留保などではない。その場その場の状況においての支え合い、補完性をその都度、人間的に判断するということなのだと思う。 家族との関係でも、仕事場の関係でも、一日のうちの疲労度や時間の余裕の多寡によっても、立場の強さと弱さは相対的に絶えず変化するわけで、その時々に「弱い方」を支えるデリカシーを持てるかどうかが問題になる。 高齢者こそがそれを実践して「若者」に示すような社会を取り戻せればと思う。 既得権益にしがみついている人が目立つことで若者からの反発を招くのは、悲しい。
by mariastella
| 2023-03-21 00:05
| 時事
|
以前の記事
2026年 01月
2025年 12月 2025年 11月 2025年 10月 2025年 09月 2025年 08月 2025年 07月 2025年 06月 2025年 05月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 2024年 06月 2024年 05月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月
カテゴリ
全体
雑感 宗教 フランス語 音楽 演劇 アート 踊り 猫 フランス 本 映画 哲学 陰謀論と終末論 お知らせ フェミニズム つぶやき フリーメイスン 歴史 ジャンヌ・ダルク スピリチュアル マックス・ジャコブ 死生観 沖縄 時事 ムッシュー・ムーシュ 人生 思い出 教育 グルメ 自然 カナダ 日本 福音書歴史学 パリのオリパラ 人生観 未分類
検索
タグ
フランス(1337)
時事(798) 宗教(696) カトリック(614) 歴史(426) 本(308) アート(248) 政治(221) 映画(177) 音楽(151) フランス映画(106) 哲学(104) 日本(98) フランス語(94) コロナ(85) 死生観(63) 猫(56) フェミニズム(49) エコロジー(48) カナダ(40)
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||