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L'art de croire             竹下節子ブログ

枝の日曜日がまたやってきた

(「エコロジーの現在」はこの後に続きます。)

4/2は聖週間の始まりの枝の日曜日だった。

今までたいていの枝の日曜日についてブログに載せているので検索してください。
すべてのコンサートなどがロックダウンで閉鎖していた2021年の聖週間は、唯一集まって歌えて、生の音楽も聴けて、演劇的展開も楽しめて、という最高のカタルシスのものだった。

あれから2年、ノーマスクはもちろん、ウクライナ戦争にお株を奪われて、コロナ禍ってなあに?という状況になってからも1年近く経つので、なんだか気が抜けた感じの枝の日曜日だった。いや、天気もまあまあで近くの教会は人がぎっしりで、どこの村ですかという雰囲気だった。

扉の前でみんなが柘植の小枝をもって聖水をふりかけてもらうのを待ち、イエスのエルサレム入場歓迎を模して聖堂内に入っていくのだけれど、そういう「演出」にも特に感情移入できない。でもおじいちゃんに抱かれた子供が枝を持っているのが可愛かった。子供がたくさんいた。
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同じく扉の前で司式するこの司祭の前にいる女性の髪形に感動。
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年配の黒人女性で、いわゆるグレイヘアなのだけれど腰まである長いアフロのドレッドヘアにしてある。メトロの中などでみごとなドレッドヘアを見て感心することはあるし、子供のドレッドヘアも洗う時など大変だなあ、と思ったことがあるけれど、年配女性の銀髪がビーズのように連なって光っているのはすごい。こういうのって基本的に自分ではできないわけで、メンテナンスしている人のことなど想像して楽しい。
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この日のミサは最後の晩餐から受難まで延々と掛け合いのように福音書が読まれるのを起立して聞くのだけれど、その気になって聞いている時は演劇的で楽しいけれど、疲れていた私には長すぎて、途中で座ってしまった。まあそういうのは同調圧力とかない世界だから助かる。

私の横には幼い三人の女の子を連れた母親らしい女性がいて、当然その子供たちが泣いたりぐずったりする。前にいた女性が時々振り向いてにらむので母親は焦って何度も、下の子を連れて外に出たりしていた。
福音書を読めば、子供たちを避けようとして弟子にイエスは子供たちこそ一番天国に近い存在だ、みたいなことを言っているのだから、教会で子供が声をあげたりするのに眉を顰めるなんて全くお門違いなのだけれど、ここで前の女性を注意するわけにもいかない。

その時思ったのは、この母親はシングルマザーか、少なくとも、子供たちのフォローのために付き添ってくれる父親とか祖父母とか友達と来てはいないということだ。手のかかる幼児3人を連れてまで、教会に足を運ぶということは、彼女がよくよくそれを必要としているということだろう。

で、母親と三人の娘という組み合わせを見る目にはけっこうジェンダーバイアスがかかる、と思った。
これが父親と三人の娘なら、大変だろうな、と思ってもらえるかもしれないし、父親と三人の息子なら、なんだか隊長と小さな兵士みたいでかわいいと思ってもらえるかもしれない。ジェンダーフリーだなどと言っても、人の「視線」はそれぞれの生活史からフリーになれないのだなあと思った。

こういう場所に来て普段のつき合いのないいろいろな人を観察するのは勉強になる。
これがカトリック・マジョリティの国の特権で、日本人が気軽にお寺や神社の行事に紛れ込むことができるのと同じだ。

式次第のプリントも進化してきた。
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十字架の道のことをBD風に紹介している。キャプションの字が小さくて、高齢者は読まないだろうから、子供たちを意識しているのだろう。実際子供たちのグループがたくさんいた。大人はもう無理だから、子供に伝統を教えようとしているのはなかなかの未来志向かも。
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帰り道のオリーブの木。いつも心を奪われる。
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説教は、イエスが「受難」を受け入れたという生き方のモデルをどう見るかということで、今の世にはほとんどアナクロニックな言説をきっちり蒸し返すことの意義を思う。教会を出た後は、少しやさしい気分になれた。

先週のフランシスコ教皇の入院のニュースはカトリック界を揺るがしたけれど、「頭が働く限りは奉仕し続ける」という彼の気概は頼もしい。

その後うちで観た番組で、磔刑図についてあれこれやっていた。
メル・ギブソンの監督した受難映画が残酷シーンが検閲されたという話もあった。世間にはゾンビ映画だとかヴァイオレンス映画で脳髄が飛び出すようなシーンはいっぱいあるのに、イエスが鞭打たれたり釘うたれたり血を流したりするのが残酷すぎるというのはなぜか、ということに、実際に磔刑図を描く画家が答えていた。

絵画では磔刑図の中にその後の復活も栄光もすべて盛り込まなくてはいけないから、シンボリックになる、でも映画では時系列に展開できるから、残酷な部分はそのまま表現できるというのだ。実際、磔刑図がキリスト教世界に登場するには何世紀もが必要だった。
その前はイエスは魚だとはいろいろなシンボルで表現されたり、復活後の栄光の姿、再臨の姿などだった。けれども、「十字架上で苦悩した生身の人間というステージを抜きにして復活はない」ということでタブーが少しずつ解けた。中世には、疫病などで苦しむ人が同化できるようにことさらリアルな苦しみの画像が定着した。
といっても、イエスの苦しみに共感するだけで自己陶酔する人もいるかもしれない。

同じ日、ヴァティカンでは病み上がりの教皇が司式した。彼の説教を聞くと、イエスの受難の苦しみは、鞭打ちや十字架の道や磔刑に伴う肉体的な「痛み」よりも、前夜に発った一人で祈り、弟子たちからも父なる神からも見捨てられたという絶望の苦悩だという。確かに、私たちは鞭打ちや手足にクギをたれたり血まみれだったりの壮絶な外観にショックを受けるけれども、「痛み」と「苦しみ」は違うし、イエスの「苦しみ」は「絶望」とすれすれだった。それでも、神の定めた運命を「受け入れる」と決めた時点で、自分を見捨てたり、裏切ったり、あざけたり、傷つけたりした人を「赦す」境地に至った。だから、イエスの受難は、孤独や裏切りや他からの悪意によって孤絶して絶望している人にこそ救いをもたらせてくれるのだという。

確かに。誰かに歯を削られたり抜かれたりして痛くても、その誰かが善意で治療してくれる医者と分かっているなら「痛み」はあっても「苦しみ」はない。けれどもサディストのからの拷問で歯を抜かれるなら痛みと苦しみがセットになる。
イエスの受難と復活というのは、絶望的な状況にあっても、それに押しつぶされずにいったん受け入れることで「苦しみ」や「痛み」の質を変え、それを最終的にポジティヴなメッセージに転換することはいつも可能なのだ、ということなのかもしれない。


付録)この日のミサで歌えた最高の歌は、リジューの聖テレーズの作詞による「愛するとはすべてを与えること」という歌だった。
歌詞を下に貼っておく。太字がリフレイン。

意味は、どんなに立派なことをしゃべっても、信仰の力で山を動かしても、全財産を教会に寄付しても、信仰を守るために炎の中に身を投じても、愛がなければ全ては無だというものだ。反対に、小さなものに注ぐ小さな愛があれば、世間に向ける言葉やパフォーマンスなど必要がない。基本に帰る、って大切だ。


Aimer c'est tout donner (ter)
Et se donner soi-même !


1 - Quand je parlerais les langues des hommes et des anges
Si je n'ai pas l'amour, je suis comme l'airain qui sonne
Ou la cymbale qui retentit.

2 - Si je prophétisais et connaissais tous les mystères
Si j'avais la foi à transporter les montagnes
Sans l'amour je ne suis rien.

3 - Quand je distribuerais ce que je possède en aumônes
Et si je livrais mon corps à brûler dans les flammes
Cela ne me sert de rien.








by mariastella | 2023-04-04 00:05 | 宗教
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竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/
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