秋に日本に行った時の機内映画のオーケストラ映画「太陽とボレロ」が気に入ったので、今度もオーケストラ。日本映画のラストで指揮する男性指揮者役が現実の女性指揮者というのも印象的だったが、こちらはレズビアン女性指揮者という設定。
ジェンダーがどうのこうのと言うより、元々オーケストラの指揮者って、もろ父権メンタリティだなあと思う。このケイト・ブランシェット演ずるターは、特にカリカチュラルなまでに、自分の音楽を全員に憑依させるタイプで、音楽と野心と、才能と傲慢が絡み合っている。
私はフランス語吹き替えで試聴したのだけれど、日本語字幕が消えないで、時々目に入ってしまうのだが、ターの言葉が字幕ではみな男言葉であるのに違和感を持った。英語には女性形がないし、フランス語でも、両形併記は近頃多くなっているものの、私の世代のレズビアンの「パパ」型の人も普通に女性形で話しているのを知っている。
それなのに、確かに日本語の会話文って、語尾で男か女かわかってしまう。でも男が「そうだね」と言っても「そうだわね」と言わない限り普通に受け取られる。
でもこの映画の字幕ではわざわざ「そうだな」となる。そしてそれは、彼女の性意識というより、優越性、権力志向に聞こえてしまうのだ。
苛立ったらボクシングのグラブでサンドバッグを連打したり、敵を作って男子学生へのセクハラを告発されたりする.女性指揮者として新しいタイプの可能性を開くとか、ジェンダーに関係のない超越的な地平へ向かうとかではなく、「男役」「パパ役」のカリカチュアなのだ。アマゾンでの先住民族音楽への目線も、それを自分の強みとして利用しようという意図もあるし、安易なエキゾティズム、現実逃避にも結びつくなど、うーん、興行的には新鮮かもしれないけれど、別に女性でなくっても良かったんじゃない?ともおもう。
レズビアンとして魅力的だけれど、少し痛ましい。
コロナ禍の間にベルリンフィルが無料でコンサートを配信したとか、リアルっぽい背景だし、オーケストラの内部事情やオーディションの様子とか、エルガーのコンチェルトを弾くロシア人チェリストとか、色々な場面は、「太陽とボレロ」での地方のアマチュアオーケストラとは違ってスケールが大きく楽しめた。でも、後味は良くない。
フェミニズム映画を狙ったのなら、ステレオタイプすぎて逆効果かもしれない。
参考)