昨年、『カトリック生活』8月号に「祝福」のテーマでエッセイを書いた。
そこでは特に「無償の肯定」を強調した。カトリックの雑誌だから、「神のご加護を願う」という側面はもちろん前提だったが、特定の宗教がなくても、人は誰でも、亡くなった家族や友をはじめとして、今は同じ空気を吸っているわけではない何か超越したもの、霊的なものの加護を願い、すがりたい気持ちを持っている。
今思うのは、カトリックの「祝福する(ベネディクション)=善い(ベネ)ことを言う(ディクション)」という意味のうち、言う、つまり、口に出す、「言葉にする」ことの大切さだ。口で言わなくても感謝の念やら愛情は伝わる、などともいわれることはあるけれど、「口に出す」ことはそれだけで魔法のような効果を発する。
イエスは、食べ物や手洗いに関する宗教上の禁忌について、「口に入るものより口から出ていくものの災い」の方が重大だ、と言っていた。
悪意も、言葉に出さなければ害は少ない。善意は言葉に出せば、増幅する。
実は「心にもない」ことでも、希望をもたらすように言語化したり相手のために良かれという形で口にすると、「祝福」になる。
SNSなどで悪意を言語化して拡散させたり、別に悪意がなくてもそれに便乗してコピーしたり増幅したりすることはまさに「災い」だ。
その捻じれた形では、「話しかけない」という「いじめ」もある。
人は、単に、「悪意のある言葉をかけられなければそれでいい」という存在でなく、善意の言葉や肯定的な言葉を「生きる糧」としているのだ。
私の子供時代、大都市の公立学校では、今思うと、まだ、生徒間の環境や貧富の差が大きかったのだろう。実際に汚れた制服を着ていたり、悪臭を放っていたりする生徒もいて、彼らはいじめられているわけではなかったけれど、遠巻きに無視されていた。
近くによると不潔さだけでなく諦念の負のオーラが出ていたのに驚いた。遠くからは分からない。遠くからはまるで「無」のようだったからだ。
たまたま座席が近くになるなどして、その「負」に衝撃を受けた私は、積極的に話しかけた。
私が彼らと話すことについて、他の生徒からのリアクションはなかったと思う。彼らはいつも、そこいないかのようにスルーされていただけで「嫌われ」るほどの存在感もなかったからだ。
ところが、私が近づいて普通に話しかける、たったそれだけで、その生徒を包む闇がほころび、それまで無表情だった彼や彼女に微笑みさえ浮かぶのを見た。
今思うと、「言葉」を口にすることで起こる「奇跡」をはじめて知った瞬間だったような気がする。
子供だから特に信仰がなくても、「神さま、お願いします」みたいな祈りはたまに口にしても、別にそれで特にご利益があったと感謝した記憶はない。
でも、教室の一角で、悪臭の内側から輝きが放たれるのを目撃したことは、私にとっても「感謝」の瞬間だった。
言葉によって「祝福」されたのは、私の方だった。