クシシュトフ・キェシロフスキの最後の作品。
彼の作品は好きだったけれど、これを観た記憶がない。
隣人の電話を盗聴するのが趣味の引退判事とマヌカンのバイトをする女子学生が犬を通して交流し、段々と心が通じていく。判事は若い頃の恋人が別の男と寝ているのを目撃したのがトラウマになっていて、その話と、司法試験勉強中の若い男がやはり恋人の情事を見てしまうという悲劇とパラレルになっている。
トランティニャン64歳、今なら「前期高齢者」基準にも入れてもらえない。
2012年の『愛 アムール』の老夫婦の時は82才だったらさすがに老人という感じはあるけれど、60代前半で、一人暮らしで杖を突いて、もう片方の手でもったヤカンから水をこぼして、と、映画の中で何歳という設定なのか知らないけれど、悲惨すぎる感じだ。
とはいえ、30年足らず前の時代なのに、コードレスのプッシュホンがあるというだけで、携帯電話がなくて車にGPSもないというシチュエーションがなんだかディストピアみたいだ。そして恋人たちや家族は皆、必死に固定電話で連絡を取り合い、それに出なかったら不安を嵩じさせたり、疑心暗鬼になったりする。恋人のアパルトマンに外壁を伝って探りに行ったりするのだ。
トランティニャンの演ずるジョゼフという元判事も、盗聴にふけっているけれど、今なら、SNSにのめり込むことができるだろう。マッチングアプリみたいなものにいれあげるかもしれない。
うーん、30年前の孤独と今の孤独とどちらの闇が深いのだろう。
この映画を撮った時のキェシロフスキはまだ50代だった。
今の私が観ると、誰にも感情移入できない。司法試験に合格して、未来もある若い男が恋人にふられたくらいでこの世の終わりみたいになるのも理解できないし、でも敢えて若者の立場を想像すると、「携帯電話」のない時代の残酷さ(SNSツールの残酷さとはまた別)が身につまされる。中途半端に電話が普及しているリスクの大きさにも今さら気がつく。(ジョセフにも盗聴できない電話があって、それは日本から持ってきた電話で波長が違うからだ、というシーンがあった。1994年の日本なら、携帯電話が普及し始めていたのだとしてもそれをスイスで使えるのだろうか・・)
映像も音楽もきれいだし、赤い色の使い方も楽しいが、全体に生きづらさばかり強調されている。でも、愛犬を捨てたのかと思った若い法律家が最後にフェリーから救助される時に愛犬を抱いていた、とか、元判事の犬が子犬を7匹も生むとか、電話を必要としない犬との関係を通して少し希望が見えるので救われる。
しかし、西部劇だとか、時代劇だとか、異世界の話の方が中に飛び込んでいけるのに、「携帯電話」とインターネットだけがない世界の方が、違和感があり過ぎるというのは、近頃よくあるケースで、このスピードが加速するなら、10年後の「幸不幸」の形もすっかり変わっているかもしれない。映画のことよりもそんなことばかり考えさせられてしまったことに驚く。