いろいろたて込んでいるので、読みかけの本などについて断片的メモ。
哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチは生涯ピアノを弾いていた。
自分の姉(妹?)がコンセルヴァトワールで首席か何かだったので、自分はピアニストではない、と言っていた。
でもこの人のピアノ愛はすごくて、メロマニーではなく演奏好きだったのだと分かる。
メロマニーと呼ばれる音楽好きな人はたくさん知っている。レコードのコレクションをしたり、いつも何らかの音楽を聴いている。音楽なしの生活が考えられない。
私の兄はメロマニーだったけれど、私は違った。
ピアノのレッスンの曲、クラシックバレーのレッスンの曲、声楽レッスンの曲、などを耳にしていたし、たまにはテレビやラジオで流れる曲も口ずさんだ。コード本を買って弾き語りなどもした。でも、それだけ。
巧拙は関係なく、聴くより弾くのがいつも好きだった。
メロマニーであることと演奏家であることは直接関係ない、別々のことだと聞いたことがある。プロの演奏家でも、メロマニーかそうでない人の割合は演奏家でない人と変わらない、という話も聞いたことがある。
ジャンケレヴィッチの話を聞いて、ほっとしたことがある。
彼はピアノを通して音楽と接している、自分の指の下で生まれ得る音楽だけが好きなのだ、と言うのだ。
自分が指を動かして、そうして音が出て、音楽になる、それが過ぎゆく時間の魔法なのだという。フランス語で言うとtemporalité enchantéeで、一回性だ。先に行く方向しかない。後に戻れるならそれは時間ではなく空間だ、という。
何度同じものを弾いたとしても、その度に、自分の感覚も音楽も変わる。
ピアノ、特にグランドピアノについて、ブルジョワのサロンだとか有産階級の怠惰などを連想して、階級差別の助長だとして否定する人がいるそうなのだが、ピアノを弾くことで得られる一回性の魔法と文学的回想はすべての人に開かれている、と彼は言う。
自分の指を通してスピリチュアルなものと触れるというのは、全くその通りで、それは曲の難易度や演奏のテクニックとすら直接の関係がない。
私はすべての生徒にできるだけそのことを伝えようとしている。
ジャンケレヴィッチの言っていることが実感として分かるのだ。
メロマニーでないこと、難曲にチャレンジしないことなどに何となくコンプレックスがある気がしたけれど、ジャンケレヴィッチのおかげで、一回性の魔法への感受性に自信が持てた。
(続く)