前にも書いたけれど、フランスでは、中世以来の同業組合の流れを継承した革命以来の「共和国」教育システムがまだ続いていて、ほとんどの職業、メチエは、しかるべき「資格」と結びついている。たとえば、メディアの仕事をしていても、ジャーナリズムの学校を出てジャーナリストというタイトルを持っていなければ、「ジャーナリスト」と自称するのは難しい。
そういう「メチエ」の資格を持っている人がカトリックの教区司祭になった場合、活動の半分を教区のために、活動の半分はメチエの専門活動に従事できる可能性がある。今年が司祭叙階20年となるアレクサンドル・ドニ神父は、子供の頃から奇術に夢中で、舞台仕掛けを制作するための学校に4年通った。結局パリで司祭になる道を選んだが、週一回はビストロでテーブル・マジックを仲間と披露しあう許可を得た。
手元の奇術、手品だけでなく、大掛かりな仕掛けのイリュージョンにも携わった。
2018年には、異端審問を舞台とする演劇の特殊効果を受け持った。グランギニョルで「血まみれ」の台本だったが、カトリック教会を批判したり貶めたりするテーマではなかった。修道院にこもって執筆する推理小説作家と中世の異端審問の交錯のホラーで、舌や首を切ったりするシーンは確かに奇術師の舞台の延長を思わせる。
そしてこの舞台装置、仕掛けで、彼を含めた5人のチームが2019年にモリエール賞を受賞した。フランスで演劇のアカデミー賞のような権威ある賞だ。
現役司祭が「副業?」で表彰されるなんて稀有なことだろう。
今はモンマルトルのサン・ピエール教会に着任、毎日曜日にはミサを挙げるだけでなく、午後5時には教会前の広場で3人の仲間と共に、キャラバンの移動シアターで奇術を披露しているという。教会に通う信徒でなければ彼が司祭だとはだれも思わない。
では彼の「信仰」や「福音宣教」との関係は?
演劇や映画を視聴したり小説を読んだりするとき、人はその物語が現実ではなくフィクション、虚構、嘘だと知っている。合意している。敢えてその中に入ることは「日常」から外へ出ることだ。「今、ここ」の制限やしがらみある現実とは別の世界で「自由」や「美」や「真実」と出会えるかもしれない。「真実」は「現実」である必要はない。
心身の状態に縛られた日常の中ではなかなか味わえないスピリチュアルな世界との関係を育むことが可能になる。
私はどんなマジックでも、タネをあかされなければ「奇跡」のように魅せられてしまうタイプなので、その感じがよく分かる。逆に、いかにも本当のように語られる御用メディアだの陰謀論などにも、それが「事実」だとは限らない、だまされているだけかもしれない、という距離感も持つことができる。
目で見える、頭で理解できる、確認できるなどと思っていることの危うさ、はかなさも理解できる。「見た目」に展開されていることを支えている「意味」や「意図」や、「本質」に注目するスキルを身につけたいものだ。
ちなみに、奇術師の守護聖人がちゃんといる。
サレジオ会の創始者、ドン・ボスコだ。彼なら、わくわくと見つめる子供たちの前で手品を披露していたというエピソードがよく似合う。