最近、自分の頭のどこかでトマス・ベケットとトマス・モアが混同されていることに気づいて驚いた。
日本人のお受験的知識としては、もちろんちゃんと覚えている。
>12世紀のベケットは大法官でカンタベリー大司教で、ヘンリー二世にうとまれてカンタベリー大聖堂内で暗殺された。
>16世紀のトマス・モアは大法官で、ヘンリー八世にうとまれて、処刑された。
時代的にも、歴史のコンテキストでも全然違う。
共通しているのはどちらも「殉教者」としてカトリック教会からも英国国教会からも「聖人」の列に加えられていることだ。
もっとも、前者は大司教が大聖堂内で暗殺されたのだから、僅か3年後に列聖。
後者は宗教革命などを経て、処刑された400年後の1935年に列聖。
こんなに違うのに、そしてそれは「知識」としてはよく分かっているのに、なぜ印象の混乱があるのかと考えてみたら、それは「映画」のせいだと分かった。
「世界史」で習った字面の知識とは別に、1964年の『ベケット』と1966年の『わが命尽きるとも』という二本の映画を、日本での封切と同時に映画館で観たからだ。
中学生だったろうか(私は中学生の頃からほとんど毎週のように一人で映画館に通っていた。今なら携帯も持たずに子供を自由にさせるなんて考えられない気がする)。
で、どちらも、強烈なコスチュームプレイ。こちらには12 世紀と16世紀の区別もつかない。
前者はリチャード・バートンとピーター・オトゥールという強烈な大スター。
後者も、ロバート・ショウ、オーソン・ウェルズ、ジョン・ハート、ヴァネッサ・レッドグレーブなど錚々たる俳優たち。
少女時代、「海外」のイメージは「洋画」で占められていた。
この二本の映画、王様の権力とと法や宗教の権威が衝突して、「正義」「正論」の「権威」が不当に葬り去られる、というテーマの記憶がフュージョンしている場所が、脳のどこかに残っている。
西洋キリスト教史を把握している場所とは完全に別らしい。
ともあれ、老化によって何もかもが混ざってしまわないうちにと、ここにメモしておく。
(でも、私ですらこうなのだから、今の若者が年取ったら、ゲームやアニメのヴァーチャル・リアリティの記憶まで全部混ざってしまうのではないかと、ふと心配になった。まさに老婆心というやつだろうか。)