「この子はお前の信じるキリストの名で洗礼を受けたのだから、その疫病神のような奴に身を捧げた全ての奴らが死ぬように死ななければならないというわけだ。」
クローヴィスが妻の聖クロティルドに言った言葉。Sainte Clotilde (1905), Godefroy Kurth
「この子」とはクローヴィス自身の子供のことだ。
クローヴィスと言えば、ローマ帝国の版図に攻め込んだフランク族の王で、アラマン族とのトルビアックの戦いの壊滅的な状況で神の助けを求めて勝利し、その後フランク族の王としてランスの聖堂で洗礼を受け、ヨーロッパの元となるフランク王国の基礎を築いた。
その戦場での有名な祈願の言葉でなくこの冷たい言葉が引用されるのは印象的だ。
クローヴィスは、ブルゴント族(今のブルゴーニュ地方を占拠していた)の王の姪に当たる妻クロティルドと493年に結婚し、クロティルドは翌年生まれた息子にキリスト教の洗礼を受けさせた。息子はまもなく夭逝し、キリスト教を無視する異教徒だったクローヴィスはこんな心ない言葉を妻に浴びせていたというわけだ。(もちろん妻との結婚もブルゴント族との政略的なものだった。)
そのクローヴィスが、トルビアックで戦況が厳しくなった時に「クロティルドの神よ、もし私に勝利を与えてくれたなら私もキリスト者になろう」と叫び、勝利した。
キリスト者になったことで、すでにキリスト教社会になっていたガリアやローマ帝国の臣民たちの支持を得られるというメリットが生まれ、キリスト教の布教を進めることにより、すでに力のあった司教たちや修道指導者らとも連携できたおかげで版図拡大と統一が進んだ。ウィン=ウィンの関係になったわけだ。パリで没し、後に「フランク王国」から分かれたフランス王国も、「教会の長女」と呼ばれるようになる。
ちなみに、ブルゴントも、フランクも、アラマンも、みなヨーロッパに侵入してきたゲルマン族の部族国家だ。5世紀末にはもうかなりの王がキリスト教に改宗していたが、みな、後に異端となるアリウス派だった。クローヴィスは妻の属するアナタシウス派、すなわちローマカトリック教会の洗礼を受けた最初のゲルマン系の王で、そのことでガリア・ローマのカトリック勢力と結びつき、今のヨーロッパの基礎ができたわけだ。
カトリックはローマ帝国内でも貴族の子女を中心に広まった。「女子供」が先に信者となり、男が後に入信するというパターンは、なんだか21世紀の日本のような国にさえ存在しているようだ。「相対的弱者に徹底的に寄り添え」「たとえ殺されても絶対平和主義を貫け」というタイプのメッセージは、父権制の社会の中で「弱者である子供を守る」女性たちに受け入れられるからだろうか。
といっても、クローヴィスはトルビアックの戦いで、突然退却し始めたアラマン人を追って虐殺しているし、その後もキリスト教は政治の道具として使いまわされてきたのだから、「絶対平和主義」は実を結ばなかった。
それでも、各種修道会を中心に、地道に上の二つのメッセージに生涯を捧げた生き証人(これを聖人と呼ぶ)が生まれる土壌は残した。
ともかく、クローヴィスのおかげもあるのかもしれないけれど、それ以来、フランスって、ゲルマン人と先住のガリア人、ケルト人、ギリシャ=ローマ文化圏の人たちがずっと混血してきたから、独特のコスモポリタニズムが根付いている。今でもそれに敏感なアーティストたちが世界中から集まってくる。