arteのドキュメンタリーの「決闘シリーズ」を次々に視聴して、なるほどこういう見方があったのかと感心しているが、その中でも、メキシコの「マリンチェ」とアステカの王との戦いはおもしろかった。マリンチェは裕福に家に生まれたけれど没落して奴隷に売られ、スペインのコルテスらが上陸した後はスペインに売られ、洗礼を受けた。ヨーロッパのカトリック圏では洗礼を受けると平等、という原則だったのでむしろ、「自由」を希求した。洗礼名はドナ・マリナだ彼女を指す「マリンチェ」は今もメキシコでは裏切り者の代名詞だそうだ。
マリンチェについて解説している暇はないので日本語のWikiをリンク。
マリンチェが痛快なのは、メキシコの二つの部族の言葉を解し、スペイン語も覚えたことだ。これにもキリスト教が役立ったことだろう。
「言語」のマスターは「自由」の扉だった。
彼女はコルテスに徴用された。
今風の史観によると、先住民の女性がコルテスに利用された、という図式になるかもしれないけれど、スペイン人の女性が現地にいたわけではないから、彼らは本当に愛し合うカップルになっていたらしい。
何よりも、今までは、何となく、マヤやアステカが文明を築いていた場所に「白人」が侵略して、征服、という単純な図式だったけれど、確かに当時は馬も銃もなかった中南米でスペイン軍は脅威だったろうが、圧倒的な数で、スペイン軍を全滅させることは可能だった。マリンチェがいなければどうなっていたか分からない。何よりも、一口にに先住民といっても中央集権が徹底したわけではなく、北米でもアフリカでもそうだが「部族間闘争」が繰り広げられてきた。「先住民が一致して侵略者と戦った」わけではなく、原語さえ異なる複数の部族の指導者らは「白人」の軍事力を利用することもあった。
その辺の事情はケベックでフランス軍と先住民とのいろいろな同盟関係の歴史を学んでよく分かった。
世界のどこの文明でも、殺し合い、勝てば奴隷にしたり、神の犠牲に捧げたり、という「弱肉強食」の期間がデフォルトだったのは悲しい。
今に至るまで、単純に、欧米覇権主義を弾劾するのはイデオロギーに過ぎない。
中国とヨーロッパの関係を見ても単純な図式がないことがすぐにわかる。
日本でも、ポルトガル由来の「種子島」の「技術」はすぐ内戦の武器に取り入れたけれど、入ってきたのは「宣教師」たちだったし、戦国時代がまもなく終わってよかった。その結果、宣教師たちも追い出されたけれど、もし、日本の戦国大名たちがヨーロッパの軍隊と同盟を結んで他の大名と戦う戦略を選んでいたらどうなっていただろう。
(幕末には幕府はフランス軍を利用していたし、イギリスは薩長を支援していたという図式もある。まあ薩長については、薩英戦争もあったし、「尊王攘夷」もあったから微妙なのだが)
歴史をじっくり見てみると、どの民族もどの国もどの時代も、征服欲や絶対抵抗のアドレナリン?だかテストステロンが高まるとみんな虐殺、暴力、絶対服従の強制、どこでもなんでもありなので、そしてやはり女性や子供の犠牲率、被害率が高い。それを思うと、スポーツ大会ってそれなりの価値はあるなあと、ラグビーのワールドカップ開催中のフランスで思った。熱狂的なサポーターたちの姿を見ると気分が悪くなるのだけれど、ナショナリズムも含めたガス抜き装置ってやはり必要なのかもしれない。来年のパリオリンピックがどうなるのか見てみたい。