秋に買った岩波新書、デイビッド・T・ジョンソン『アメリカ人の見た日本の死刑』というのを読んだ。
他のヨーロッパ諸国より遅れたとはいえフランスが死刑を廃止したのは1981年だし、その時の事情については何度も書いてきた。
そんな中で、まだ死刑制度を残している州のあるアメリカ人の視点から日本の死刑について何を語ろうというのか、と不思議だった。アメリカが死刑廃止を決定していたら、日本も追随するだろうに、などとも。
でも、日本の裁判を傍聴してすべてを理解できるらしいこの著者によると、日本の「被害者」による訴えと感情論は根が深いし、エスカレートさえしている。
日本に裁判員制度がもたらされた時、フランスの事情について当時の『新潮45』に書いたことも思い出した。
で、日本では、ともかく「被告人」の権利や保障の提供の約束さえ存在しないし、「遺族感情」というものが圧倒的な影響を与える。被告人が無実を主張しても、被告の弁護人が「君の言っていることを信じる人がいると思うのかね? 私は信じない。」などと叱る場面もあるという。弁護人が検察の執拗な追及にも異議を申し立てないことも普通にあるそうだ。
日本で、裁判などの前にすでに、各種の「謝罪」があったり、ほとんど集団リンチのような報復感情が世間に共有されたりすることはよく見聞きしている。
それにしても、日本で死刑が求刑されるような裁判と死刑の現場などの状況がこれほどひどいとは思わなかった。
アメリカ人の著者だから色々なバイアスがかかっているのかとも思ったけれど、日本において刑事弁護の障害になるものは、法(裁判所の法解釈によって弁護人ができることの範囲が狭められている)や経済(刑事弁護の報酬が少ない)に関わるもののほか、文化的障壁が最大だという。
>>東京大学の元総長で刑法学会の元理事長であった平野龍一氏が「異常」で「病的」で「かなり絶望的である」と嘆いた日本の刑事司法においては、弁護士たちも共犯者なのである。<
と、平野氏の論文から引用されていた。
平野先生と言えば、私が学生時代に刑法学ゼミに出て熱海での合宿にも参加したことで特別の思い出のある誠実な人で、その彼がこう言っているというのを知って暗澹とした。
人が人を裁くということの本質的な闇とどう向き合うかが問われている。