2/16、ロシアの極寒の収容所でアレクセイ・ナワリヌイが没した。
プーチンは、大統領選挙の前に雑音を消しておきたかったのだろう。
このナワリヌイの最後を見ていると、イエス・キリストの姿と重なる。
殺されるとほぼ分かっていたのにエルサレムに入城したイエス、毒殺されかけたのに敢えてロシアに戻ったナワリヌイ。
妻子とともにアメリカに亡命するという方法だってあったのに、ロシアに戻った。
イエスの姿と重なるのは偶然ではない。
若い頃は筋金入りの無神論者で聖職者を目の敵にしていたというナワリヌイは、25歳で父親になった時から正教徒としての信仰を得たと公言している。ゴルバチョフやプーチンと同様、彼も生まれた時に、ウクライナ人の祖母から正教の「洗礼」を授かっているから、厳密には「転向」したわけではない。(母親や祖母らによるこの「洗礼」が、ソ連時代にも正教を陰で生かし続けた。)
しかしこの「回心」は大きい。過去には極右の活動家でもあったナワリヌイは、イエスの教えを行動の指針にすることで迷いなく邁進することができるようになったのだという。
2021年にモスクワの法廷審問で彼は聖書の言葉を引用した。
「義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる。(マタイによる福音書 5,6)」
だ。
彼はいつもこの言葉を行動の指針にしてきたと述べる。だからこそ、この時の境遇を不服に思っているが、戻ってきたことも、してきたことも後悔していない、と。
「するべきことをしたのだから後悔はありません。それどころか、真の満足感さえ覚えています。なぜなら、困難な状況にあって、私は聖書の教えに従い、教えを裏切らなかったからです。」
彼は自分が抹殺されるだろうことを理解していた。
しかし、反体制運動に続く人たちを勇気づける。
「決してあきらめないでください。彼らが私を殺すと決めるとしたら、それは私たちに大きな力があることを意味しています。 (・・・)悪が勝利するために必要な唯一のことは、義なる人の消極性です。だから、受動的でいてはなりません」
彼の言葉はすぐには成就しないだろう。
でも、
「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書 12,24)」
という聖書の言葉もある。
独裁政権に反旗を翻す一人の闘士が死んで、殉教者が生まれた。「死」を受け入れても、信念を貫き、続く人々に希望の灯を残す。
フランスでは、最近、ナチスに銃殺された共産主義者のレジスタンス・グループのリーダーだったアルメニア人詩人をパンテオンに迎え入れたことがいろいろな議論の的になっている。共産主義者だとかキリスト教徒だとかいうレッテルの内実は、時代や歴史的文脈によって変わる。不当な暴力に屈せず死を賭しても戦い抜いた人々の信念の根にある尊厳を受け止める感性が失われる時代になってほしくない。
たとえ長いスパンであっても、ナワリヌイの死が、他の多くの人の自由を広げる「実」となることを祈りたい。
(この下のインタビューでナワリヌイは 「I am a believer; I like being a Christian and a member of the OrthodoxChurch, I like to feel part of something large and universal. 」と言っている。この「普遍」(神のもとでの絶対平等)をキリスト教が提供する限り、霊性はより善い世界を築く力となる。)