フランシス・ナヴァールという建築家(というより大工?)の回想記は興味深い。
彼が1980年代にアメリカにわたって、建築現場に行った時の驚きに、釘の多用があった。とにかくすべてを釘で固定、一日に何千本も釘を打ったと思う、と言う。
フランスではいわゆる「木組み」が大切で、釘を多く打たない方が主流。
あのように釘を叩き打つのは、「暴力的」だと思った。フランスのエレガンスはない、と言う。
日本の宮大工の話やフランスのカテドラルの屋根の木組み(「森」と呼ばれる)のことをすぐ連想した。神社建築や教会建築など「聖域」には釘を打ち込むという「力」を避けるメンタルがあるのだろうか。
いや、まったくの釘なしの建築は日本の伝統建築でも不可能(屋根の固定など)だそうだが、メインは、それが目立たないように、ということで、やはり「力づく」のイメージが合わないということかもしれない。
伝統的だから「木」だけというわけではなく、釘や金属を使う技術は人類の発展と共にあったわけで、敢えて釘を使わない、隠す、というのはやはり「洗練」と関係するのだろう。
フランシス・ナヴァールは、さらに、アメリカでの「ネジ」の多用についても言及している。ネジというものは、「ネジ」を製造する工程が建築の工程とはまったく別で、大工がネジを作ることは不可能だ。ここで「手作り」の妙味が分断される。
なるほどなあ、と思った。
フランスのカテドラルで石がメインになったのは、当時の木材の供給と石材の供給のバランスの問題だったという説明を読んだことがある。それでも「森」の部分を残すことは絶対に必要だったという。
金属を多用しないのは、錆びるなどの劣化の他に、火災の際に溶けて変形すると建物全体が崩壊するリスクが大きいからだとも言われる。
だから、伝統的にアメリカの建築と日本やフランスの建築が違うのは、「東洋」と「西洋」の違いや「歴史」の長さとは別に、やはりセンシビリティの違いかなあと思う。近代のプロテスタント移民国家という、特殊な「建国」事情を持つアメリカと、日本やフランスのような熟成をたどってきたような国とは洗練への感覚が違うのは当然かもしれない。(日本にだけ目を向けて、やはり日本の伝統技術はすごい、と日本だけに視野を狭めてナショナリズムに陥る傾向もあるので要注意だ。歴史的にはアメリカが例外なのに、グローバル化しようとするからおかしくなる)
フランシス・ナヴァールは冷戦下の東ドイツでも働き、その後で「造船」にもかかわって、非常に面白い比較文化の視点でさまざまな分析をしている。テクノロジーの発展やコスパ、タイパで建築技術が大きく変わった今では貴重な体験談だ。
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