ダマジオは、イヴァン・イリイチが語った「個別カプセル」の発展形として「テクノ・コクーン(繭)」という表現をする。カプセルと同様、一ヶ所でぐるぐる回るハムスターのような状況だが、違うのは「繭」の中、つまり、絹のように柔らかで居心地がいい。すべての関係性には距離があり、選別されていて自分は繭の中の世界を支配していると同時に、他の繭ともつながっている。とはいえ、繭の中で視聴するものは単純化されたり、編集されたり、圧縮されたものであり、嗅覚や触覚は動員されないから「生命力」というものは無縁で、全ては代用品でありシミュレーションだ。
サピエンスは変異しつつある。新石器時代から農耕へ、産業革命へと、いろいろな変異をしてきたが、デジタルは今までにない強力な形で肉体に働いている。
「機械化」が進んでも、機械を操作する人間の体はまだ動員されていた。
デジタル・ワークでは、体は清潔で空調の効く快適空間に留まるなど、指数関数的に「非実体化」を遂げている。
生きている肉体を実感できない状況が「鬱病」の増加を招いている。
すでに1986年にジャン・ボードリヤールは、ジョッギングのブームを分析して、ジョッガーは自分が生きているという実感を得るために「消耗」する必要があって走るのだ、と指摘していた。
テクノコクーンの最大の問題は、自分の肉体からの疎外だけでなく、「他者との関係性」の倒錯だ。「他者」との摩擦や対決は避けられる。皆が自分の繭で快適にいることに慣れているので、そこに他者からの侵入があるとすぐに、予期しなかった攻撃、ハラスメントとして受けとめられる。
暴力について研究する社会学によると、今の都市の通りは、以前の数世紀に比べてはるかに安全度が高いそうだ。ところが、我々はテロリストなどの暴力が蔓延する社会に生きているという不安がある。「危険度」を認知するハードルが極端にさがったからだ。
Sekko : これはあらゆるハラスメントについての過剰報道を見るとよく分かる。
いや、コロナ禍での報道が不安をそそる全体主義を醸成した記憶も新しい。
ニュース番組は暴力事件や暴動やいじめ自殺などを、これでもかと報道し続けている。学校などでのちょっとした事件でも、すぐ心理療法の専門家によるケア体制が組まれてトラウマを防ごうとする。
そういうこと全部が、ショックに対する全ての人の「耐性」を下げているのは事実だと思う。SNSによる「いじめ」や「仲間外れ」で自殺してしまう子供がいるなんて、昔は想像もできなかったことだ。
私自身、自分の名や著書などをネットで検索することは絶対にない。
親しい友人たちとのグループLineでさえ、ちょっとした行き違いや誤解で傷ついたり傷つけたりすることがあり、すぐに修復した後でも、デジタルコンテンツは残るので心が痛むことがある。