(前の記事の続きです)
現在、自由な人間としてIT 環境でを使いこなすためのノウハウを与える十分な物語が存在していない。バチスト・モリゾーが「生者の文化」を語ったように、テクノロジーのエピキュリニズムを提唱したいとダマジオは語る。無益な幻の欲望と根源的な欲望とを分けることだ。IT時代のこの30年ではまだその青写真ができていない、我々の「野蛮さ」をリセットしなくてはならない。そして欲望というフィールドにおけるテクノ資本主義と戦わなくてはならない。テクノ資本主義は、あらゆるところを標的にしている。我々の不安や、安全を必要とする心、衝動、神になるという妄想、性欲に基づく経済などだ。
作家の戦いの場は想像の世界だ。今は人々が一日5時間も、連続ドラマ、ビデオゲーム、マンガに費やす時代だ。テクノロジーによって人間を変質させるのとは別の世界を提供したい。生きた世界と関わることで、人はヴァイタリティやエネルギーを再び見つける。気分をより高揚させることのできる生き方を提案する必要がある。ダマジオはアルプス=オートプロヴァンス地方に動物や植物や森林との関係を増幅させる魅惑のゾーンをつくるつもりだという。さまざまなアトリエやセミナーで人間同士の関係という豊かさを増幅させる場所だ。よく食べて、飲んで、キノコ狩りをして川で泳ぎ、プラスのエネルギーが注入されるのだ。
ダマジオは無神論者であり、作品の中では、死者は天国に行くのではなく生まれ変わることになっている。彼にとっての「スピリチュアリィ」とは、人は、自分を超越する何か、理解したり操作したりできない何かがあることを受け入れることだという。人生のどこかで徴しを受け取るミステールだが、その神秘というのは開かれたものだ。リルケは「開かれた中で立つ Se tenir dans l'ouvert」と言った。ダマジオにとってのアートや創造はその在り方から来る。ベルグソンが生命の力、躍動を信じていたこととも通じる。ダマジオもそれを信じている。彼のスピリチュアリティは何よりも「生命」を与える力なのだ。(終わり)
Sekko : シリコンバレーでのルポルタージュと分析からの直接の論考をもっと期待していたけれど、インタビュー記事からはこれくらいしか分からなかった。
デジタル全体主義社会への抵抗って、やはり人々が集まって意見を交わしたり共に何かをすることという以外の「特効薬」みたいなものはないのだろうか。
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でも、「超越の世界」「霊的な世界」が「開かれている」という感覚は大切だ。
そうしないと、「目に見えない世界」にコンタクトするには特殊な儀礼やらオカルトの術が必要だという誤解が起きる。うちに引きこもってデジタル画面ばかり見ながらパラレルワールドを自由に動いていると錯覚しているが、実は外に出て見上げれば世界中とつながる空が広がっている。神秘は隠されているのでなく、神秘に対する感性の方がいろいろなもので覆われているということだ。
デジタルテクノロジーは、神秘や不思議や未知の世界を矮小化して提供しているだけだ。
「書を捨てよ、町へ出よう」と言ったのは寺山修司だけれど、今は「スマホを捨てよ、空を見上げよう」という時代になったということらしい。
富岡鉄斎の座右の銘だったという「万巻の書を読み、万里の道を往く」という言葉を思い起こす。古来から伝えられた叡智や同時代の情報を仕入れることは大切で、それと並行して、自分の足で世界を見聞し自然も謳歌すべきなんだということだろう。
(付記)
別ブログにトマス・モアの記事をアップしました。