今回、集められたり再構成されたりした夥しい粘土像や石膏像を見て、これまで抱いていた「神が降りてきた」ような印象は大理石やブロンズ像から来ていたのだと分かった。粘土や石膏には艶がない。陰影と試行と弾力の跡が見える。
粘土を手に取って人体を形作り、頭部、肩、胸部、腰、脚をそれぞれ少しずつ動かして四方向にカーブをつける。これで波動が生まれる。両肩、両足の高さにも差をつけるるこれがアコーディオンのようなエレガンスを生み、横から見て背中がそっているのが見える。落ち着きと優美さ、均衡の中に生きる喜びと理性が浮かんでくる。
体の「構図」が重要で、さらに微調整をする。典型的なのは紀元前五世紀頃のアテネの彫刻家ペイディアスのものだ。
(後にルーブル美術館に同行して、サモトラケのニケ像などで実際に解説もしている)
で、次はミケランジェロ、今度も同じように粘土をこねて人体像を作る。この時は体幹と脚とを反対向きに作ってから、ねじる。片腕は体に、もう一方は頭の後ろに回す。「力」と「無理強い」。四方向でなく二方向と上下だけの激しさは、先ほど見せたペイディアスのモデルの静寂さとは対極にある。
実際、ロダンは、たとえば大理石を削り刻みながら形を生み出したのではなく、石膏や粘土をこねた「型」こそが、本質に迫るクリエーションだったのだ。「指」は一番の道具であり、その他に押したり表面を薄く削ったりする道具を使っていた。
ペイディアスの神的な静謐とミケランジェロの獰猛なまでの苦悩を賛美しなさい、とロダンは言っていた。
そういうロダンが手の中で形作っていたサイズの小品たちがすばらしい。