近代オリンピックの開催にカトリック教会が積極的にかかわっていたことはよく知られている。
仏教というと座禅などの座って瞑想する、というイメージがあるけれど、一神教の神や信徒はよく動くらしい。
『スポーツの神 三つの一神教』という本は、カトリック、イスラム、ユダヤの神学者にそれぞれの寒天から神とスポーツを論じさせたものだ。スポーツについての哲学、社会学、人類学、歴史学の論考はあるが、神学的アプローチはこれがはじめてだという。パウロは長距離奏者だとか、神はモーセと球戯をしたとか、アダムとイヴの息子カインとアベルも球戯をしたとか、ムハンマドは二度の祈りの間にスポーツのリクレーションを勧めたとか、肉体のレベルで生きるべきだとか、スピノザが肉体は魂より強いと言ったとか、これを書いている時点ではまだ読んでいないので文脈が分からないけれど、おもしろそうなので一読するつもりだ。
ローマの詩人に由来する言葉で「健全な精神は健全な身体に宿る」というのがあるけれど、元の意味は別として、この表現も、カトリック教会がボーイスカウト活動などで、子供たちに野外活動を勧めることなどにつながっていた。
でも、「健全」とはなんだろう。
柔道の精神で使われている「精力善用」という言葉もあるけれど、これもボーイスカウト風に言うと、若者たちが忍耐的な欲望に振り回されないようにスポーツや野外活動で精力を発散させる、というニュアンスで使われることもある。
パラリンピックの起源は、リハビリのためのスポーツから、障碍者が生きる喜びを取り戻すためのスポーツへと広がったものだという。パリのバラリンヒックでトライアスロンに参加する選手は、片脚を失いかけた病気を薬でケアして回復したものの、脚の痛みが消えず、迷った末、切断を願い出て、それ以来、義足によってトライアスロンの選手になることを決意したのだそうだ。
いつだれがどんなことでハンディを背負うことになるかは予測できない。
とりあえずは、与えられた身体条件を不摂生で悪化しないように心がけなくては。