(前の記事の続きです)
バカンス村からの帰り、5年ぶりにイヴリーヌの別荘に立ち寄った。
ここも十分森林浴が可能な空間で、バカンス村になんか行く必要があるの? と一瞬思ってしまう。

ベランダの向こうに温水プールが見える。
テラス。

今、リンク先の五年前の記事を読み返して、国内の格差の問題も世界規模の格差の問題も、解決に向かうどころか悪化していることに衝撃を受ける。その危機感を煽って躍進したのが極右政党だった。(マニフェストとしてはナショナリズム以上のことはカムフラージュしているが、個々のメンバーは極右発言を連発している)
で、今回、一応極右政党の議会絶対多数を逃れた選挙について政治哲学者ミリアム・ルヴォー・ダロンヌのインタビュー要約を覚書しておく。
極右をせき止めたのは市民意識の勝利だと言える。しかし社会に「ルペニスム(ル・ペンの路線)」がすでに蔓延している事実はは否めない。マクロンが安易に「野蛮化」とか「移民主義者」とか「人権至上主義派」などの言葉を繰り出してきたのも責任がある。ウォーキズム、イスラム左派、インターセクション主義などの言葉の「中身のなさ」が批判的思索を阻んでいる。言葉はその意味を失っている。「国民投票」を叫ぶ者たちがいるが、民主主義はその基本となる「法治国家」の上に成り立っていることを忘れてはならない。立法、司法、行政のバランスをとり、基本的自由は憲法で保障される。極右の言説は、一℃絶対多数の支持を得ることができればすべてを把握しすべてを委任されるという考えに依っている。主権者は、(フランス)先住民の集まりではなく、自由で平等なすべての市民からなる。マックス・ウェーバーが政治活動と「責任の倫理」とは切り離せないと言ったことを想起しよう。それは政治家にも市民にも要求される。政治活動に暴力行為が伴うという現実を根本的に変えなくてはならない。
ネオリベラリズムの合理主義が、連帯の価値観や同胞愛、共同利益を忘れて、個人の成功、活動の収益性を前面に押し出している。コロナ禍は「上からの行動規制」を強化した。同じことを繰り返されることで批判力は衰退し、マクロニズムは、人々を非政治化し、非民主主義化した。社会における優先案件や選択肢を裏に追いやり、そのイデオロギーの暗雲の中で極右が台頭した。マクロン政権は最初から、上からの、パーソナルで、強権的、傲慢なやり方で、反対派や社会諸制度のパートナーや中間権力の意見を聞こうとしなかった。マキャベリが言うように、立派な君主とは自己イメージの形成者ではなく、優れた資質を判断するのは民衆であるから、傲慢に陥らないよう全力を尽くすべきだ。民衆から憎まれないことこそが最強の要塞となる。マクロンにはそれが欠けていた。この選挙戦の中で、左派をまとめたマリーヌ・トンドゥリエやグリュックスマンのようにデマゴギーやドドグマティズムから自由な者や、メランションから決別したフランソワ・ラファンのような者たちが左派の継続的プロジェクトを築けるかどうかが注目される。
という感じだ。(このマリーヌ・トンドゥリエは38歳で、滑舌よくあまりにも頭が切れすぎるのが印象的なエコロジストだ。今回の選挙では左派連合をまとめた立役者だった。)
マクロンの突然の解散総選挙は暴挙でマクロンの勝算は敗れたという人は多いが、左派が勝っても極右が勝っても、勝利の凱旋と大改革をするような機運は立ち上がらない、なぜなら、バカンスとオリンピックがあるからだ、うまく計算した、と評する人もいた。それは確かに言える。バカンスとオリンピックで、フランス人はこのひと月の「政治の季節」から一気に骨休みに入って、テンションが下がる。反マクロンの熱もひとまず落ち着くという具合だ。