8月上旬、ある知人の葬儀と埋葬のセレモニーに参加した。
パリで亡くなった日本人女性の葬儀に参加したのは三度目だ。
1995年に亡くなった友人Yさんはは当時まだ37歳だった。日本からご両親も葬儀に駆け付けた。
2023年初めに亡くなった友人は同い年だった。Yさんを通じて知り合った人だった。
今回亡くなったMさんは私より7歳ほど年上で、戦争中に生まれ戦後の大変さを覚えているという点では、戦争の傷跡を見ずに、不自由なく育った私とは決定的な違いがあるともいえる。
日本で葬儀に参加したのは母方の祖父母、私の母のものだけで、フランスでも結婚式に出席した数の方がはるかに多い。一番最近のものはチベットのラマ僧のものだったが、すべて火葬だった。フランスで火葬がカトリックでも解禁されたのは1960年代だったと思うが、一昔前までは焼かれるなど地獄の劫火のようで恐ろしい、などと言っていた人々生前に生前に自ら火葬を選択する場合さえ増えてきた。
今回はペール・ラシェーズではなく、Mさんは長年住むパリ郊外の町の墓地を生前に購入していた。カトリック教会から墓地まで歩いていける距離だ。住宅街で、バカンスシーズンの真っ最中、オリンピックの時期でもあったので、町はがらんとしていた。
Cachanのサン・ジャン教会。
火葬用ではない艶やかで立派な棺は久しぶりに目にするものだった。
あらためてこの世での命を終えた後の体の居場所について考える。
Mさんはいつも戦う人だった。
亡くなって全ての心配事から解放されて安らかに眠るだろう、という気がなぜかしない。
彼女の戦いは違う形で続いていると思う。
これまで彼女が守り、助け、励まし続けた子供や孫たちを、これからは別の仕方で守り、助け、励まし続けることだろう。
真美架(雅号)さんが6月に送ってくれた短歌より。
癌手術前にしっかり運動し体力付けて関所を超えん
成功と失敗交差したれども天運信じ静かに祈る
神あらば百歳までも生きたしと「嘆きの壁」の願書の紙よ
(以下、別ブログに更新した記事です。)