私が実家から持ってきて手元に飾ってある掛け軸に「養神」というものがある。
以前にも書いたが、これは戦後に父が援助して、私の名付け親となった僧侶が後に永源寺の住職となった時、訪ねて行った父に揮毫してくれたものだ。父は「神を養う」というのは気宇壮大でいい、と気に入っていたけれど、この「神」は「精神」の「神」で、「精神を養う、「精神修養」のことだとは知っていた。
「純粹にして雜(まじ)へず、靜一にして變らず、淡にして無爲、動くに天行を以てす。此れ神を養ふの道なり。(荘子、刻意)」というわけだ。
ところが、最近、あるブログに『水墨画入門(岩波新書)島尾 新』の引用として次の一節があるのを読んだ。
>>>「此れ乃ち心に得て手に応じ、意到りて便ち成る。故にその理は神に入り天意を迥得す」(『夢溪筆談』)というもの。なんとなく見慣れてきた言い方だが、「天からのインスピレーションが王維の創造力にはたらいて、心に浮かんだイメージをそのままにえがいたらこうなった。だから、常識に反しているようにみえるその「理」は、天の意を得たものなのだ」。
(・・・)彼の主張は「書画の妙は当に神を以て会すべし」ということ。「神」は前にも触れたように、「天」「道」の霊妙な働きであり、それを感じられる人の心である。<<<
一神教的な「神」のイメージは中国の「天」に近いのだろうが、だとすれば、「天」の霊妙な働きである文人思想の「神」という言葉は、キリスト教なら「聖霊」に近い。
そして「それを感じられる人の心」も「神」と呼ぶならば、なんだか「三位一体」の中に人がいて、人の中に三位一体がある、という神学にも通じる気がする。
この掛け軸、ますます気に入った。
(今は何でも検索出来てしまうので一応「精神」を調べてみると次のようなものが出てきた。
これを見てから考えると、「養神」は英気を養う、という感じが一番近い気もする。住職は多分そんな意味を込めて父に贈ったのだと思う。)