「ペルシア人の手紙」症候群という言葉を、カメル・ダウドが使っているのを聞いた。
1721年のモンテスキューの小説で、二人のペルシア人の書簡を通してフランスの絶対王政の実態を批評したもので、「フランス人は自分や同胞からではなくて外国人から批評されるのが好き」ということだ。旧植民地国から執拗に謝罪を要求されるのとは少し違って、アングロサクソン国から叩かれるのはアイデンティティの補強として嫌いではない。2003年の米英中心の「イラク侵攻」に反対したことでアメリカで「フレンチ・バッシング」が起きたこともむしろ誇っていた。
外から来た観察者によって自分の国の基盤とする価値観を冷やかされるのが好きというのは、18世紀のモンテスキュー以前に、17世紀のイタリア人ジアン・パオロ・マラナがフランスの半世紀を振り返って皮肉ったイタリア語の「大領主のスパイ」がある。この人はフランス名
書簡形式というのも、「エロイーズとアベラール」書簡の翻訳以来の伝統があって、フランス語に翻訳されたという形をとった「ポルトガルの手紙」(les Lettres portugaises de Guilleragues ,1669),というのもあった。オリエントの「後宮」のエキゾティシズムはさまざまな紀行文やドキュメンタリーで養われていた。(宦官論le Traité des eunuques de Charles Ancillon ,1707など). モンテスキューの試みはそれらの伝統の上にあったわけだ。
ジョヴァンニ・パオロ・マラナは、ジェノヴァの貴族で、1670年、ジェノヴァ共和国がルイ14世と対立した時代に、政府に逮捕され、5年間の牢獄生活でセネカの全作品の翻訳に没頭した。後、サヴォワ公との確執の後で1681年にフランスに亡命、リヨンで『ラファエロ・デッラ・トーレの陰謀』をイタリア語で執筆したが禁書扱いされ、1682年にパリに移住、ルイ大王治世下でトルコ人が発見したフランスの歴史や風俗を書簡体で出版した。1684年に第一巻は匿名でイタリア語、1686 年の第二巻がジャン・ポール・マラナというフランス名でフランス語の「トルコのスパイ」を出版した。
≪ L'espion turc (titre originel : L'espiondu Grand Seigneur, et ses relations secrètes, envoyées au Divan deConstantinople & découvertes a Paris pendant le règne de Louis le Grand)≫
で、フランスには「外国人」または「異文化圏」から見たフランス評というのが好きだ、というのが「ペルシア人の手紙」症候群、というわけだ。
何だか日本も似ている。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』も日本人論の代表のように扱われていたのを思い出す。
そういえば『日本人とユダヤ人』というベストセラーもあった。日本人著者がユダヤ人名で書いたものだと分かる前に大ヒットしたものだ。