(続きです)
前述したように、「聖痕」が公認されたのは13世紀と14世紀の2例だけ。
聖痕はいわゆる「超常現象」のカテゴリーにも入らない。
手足と脇腹に傷があるという事実だけでは、完全断食や「奇跡の治癒」や空中浮揚などとは違う。
そして、「自傷」することで「聖痕」を見せることは可能だから、偽物だと暴露された聖痕の記録は数百例もある。
「血」を見せるということにはインパクトがあるからだ。
復活の栄光のイエス像よりも十字架で血を流すイエス像の方が、カトリック世界では苦しむ人、病める人の慰めになった。
写真術も発達した20世紀にカトリック教会が、「奇跡」ではなく、痛みを引き受ける「徳の英雄性」に結びつくものとして注目した「聖痕者」は44人いる。
そのうち4人が列聖され、他の40人も、福者、尊者、などに認定され、11例はまだ調査中だ。
尊者が福者になったり福者が聖人になったりするには、彼らのとりなしによる「奇跡」の認定が必要だ。「聖痕」は奇跡要件ではなく、「徳」の要件に属し、「奇跡」とは死後に、信者の祈りを神にとりなした結果だ。その多くは説明不可能の難病治癒だ。
20世紀に調査の対象になった四人の男性「聖痕者」はけっこうバラエティに富んでいる。
大量の血を流し続け、死後にすべての傷が閉じたカプチン会士パードレ・ピオ、
フランシスコ会第三会の非聖職者インドのヨセフ・Thamby、
アメリカ人の既婚者アーヴィング・チャールズ・フランシス・ハウル(Houle)、
コロンビアの聖職者Roque Jacinto Solaque (調査中)
ネットで検索すれば手の聖痕の写真なども出てくる。
パードレ・ピオのように隠しきれないものもあれば、Houleさんのように絆創膏を貼って隠している者もいる。
基本的に、聖痕は「隠す」のが正しい。犠牲と謙虚がセットになる。
聖痕を見せびらかせるカリスマというのはあり得ない。
(続く)