ジャン=シャルル・タケラが99歳になる少し前、ひと月前にパリの自宅で亡くなった。
彼の自伝は7年前に出ているが、その時のインタビューもいろいろあって、すでに90代なのに、映画関係者の膨大な数の固有名詞がすらすらと出てくるのに感心した。
日本とも少し縁があって、1955年、30歳の時に8ヶ月滞在、文化よりも人々の振る舞いに強い印象を受けたといった。彼がシナリオを担当、イヴ・シャンピを起用して、それがきっかけで岸恵子がシャンピと結婚して渡仏したことは有名だ。
タケラのつけたタイトルは「長崎の台風」だったが、長崎に台風は上陸しない、と言われて「長崎の春」に変更された。
彼にとってフランス映画の黄金時代は1960年代まで。
1930~60年は、新作映画の95%が興行的に利益を叩き出せた。今は40%。スポンサーがいなくては、赤字を想定して制作するしかない。
テレビが登場したからだ、と言っていたが、今はさらにインターネットの普及で「映画館に行く」ことと「映画を観る」ことが乖離している。
フランス国内で一番フランス映画のシェアが高かったのはドイツに占領されていた1942-44年で、フランス映画率80%、アングロサクソン映画はもちろん禁止で、ドイツの同盟国であるイタリアの映画がかなり出回っていたという。
彼は映画評論家、シナリオ作家、監督としても活躍した。
最大のヒット作は1975年の『さよならの微笑』(Cousin cousine)で、アメリカで特にヒットして、すぐにリメイクのオファーがあったが、ハリウッドでリメイクされたらオリジナルはすぐボイコットされるのを知っていたので10年待った。(1989年にリメイクされ『今ひとたび』が出たが、話題にならなかった。)
この人のすごいところは、色々なものに挑戦し続けて、たとえばミュージカルの台本なども書いたし、いろいろなものをいろいろなところに売り込んだけれど、多くは実らなかった。それでも、ずっと企画を送り続けたという。
映画や芝居はスポンサーを見つけるのが大変だし、いつも賭けのようなところがある。
彼は、幼い頃から絵を描くのが好きで、才能もあったと自負していて、もしその道に進んでいたら、年とってもカリカチュア画家として仕事をし続けていられたのに、と少し後悔するという。
次元は違うけれど、何となく共感を覚える。
私も子供の頃からいわゆる「お絵描き」で「賞」をとっていたし、7 歳から長編マンガを描き始め、10歳の時には出版の話さえあった。そこまでいかなくても、今ならネコマンガで結構人気ブロガーになれたかもしれない。
(SF小説も書きたかった。)
でも、私よりうまい人、才能のある人がたくさんいるのは分かるので、結局、自分以外には書けない地味な分野をこつこつやってきた。
それでも出版不況があり、ファンでいてくれた編集者たちはリタイアしていくし、今でも書きたいものがたくさんあるのになかなか話が進まない。
ジャン=シャルル・タケラは、実績も重ね、人脈もあり才能もあるのに、商業主義とは無縁で、ただただ、自分の書きたいものを書いてはそれが結局陽の目を見ないことを繰り返してきた。「華やかな映画界」という意味では地味なキャリアだと言えるかもしれない。でも、「継続は力なり」、あきらめることなく夢を追い、挑戦し続けた。それでも80代半ばまで現役で、90代になっても900ページに渡る貴重な自伝を書いて戦後映画史の貴重な記録を残している。
私は今でさえ、固有名詞どころか普通名詞の「想起能力」が落ちているのに、あと10 年も20年も生きて回想記を書く寿命や能力があるかなど心もとない。
それでも、タケラの誠実で実直で、自分に正直で、夢を広げ、追い続けてきた姿には勇気をもらえる。
でも、こういうタイプの実力者が次々とこの世を去っていくのを見るのは悲しい。